No.480 被造物はうめいている! 2011.3.20

(震災に寄せて)
被造物はうめいている! 
                                 阿部たかえ

 私たちは神様の創ってくださったものをどれくらい愛してきただろうか。
 聖書は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というけれど、私は、この地球を空を大気をそしてこのすばらしい宇宙を、小さくは鉛筆ひとつ、蟻だって・・・・愛してきたのだろうか。愛しているだろうか。
       
 神様は創造の冠として被造物を治めさせるために人をつくった。しかし人は罪をおかしてしまった。もう神様は人を捨ててしまったか。そうではない。
 神様は私たち人間に生きる道をつくってくださった。
    
 多くの犠牲者、行方不明者、多くのひとの心をも痛めてしまった今回の東北関東大震災は、この地球や人間すべての生き物の叫びにも思えてくる。
 私たちには、なすべきことがある。心を合わせて祈ろう!
 いつだって、どんな苦しい時だってイエス・キリストはとこしえに変わらない。
       
 今苦しんでいる被災地の方々のために、命をかけて働いている人々のために、原発のために、
私たちの地球のために、愛をこめて、思いをこめて皆で祈りましょう。
 人知ではとうていはかり知ることの出来ない神の平安が被造物すべての心と思いを守ってくださることを確信して!  
 
 
 
  宮城県大衡村のゴスペルタウン(拡大宣教学院および東北中央教会)、いわき市のいわきホームチャペルの皆さんはご無事だそうです。
 ゴスペルタウンは倒壊は免れたものの建物がかなりの被害を受け、まだ水道・ガスが復旧していません。それでも、井戸があり近所の皆さんのお役に立つと喜んでおられます。いわきホームチャペルは、信徒の皆さん、金本牧師御家族も避難されたとのことです。それぞれ多くの祈りと支援を必要としています。ご協力ください。
お問合せ先 クロスロード・ゴスペル・チャーチ
TEL 0942-84-1741 FAX 0942-48-0203
郵便振替 01730-1-64390
 
 
 
 
 わが信仰の射程 

 本当の信仰とは、ある特定の神様を拝んだり、ある特定の教義を信じたり、そんなことではない。
 ホンモノの信仰を持った人が、ある特定の神様を拝みある特定の教義を信じているというとき、それがホンモノの信仰ではなく、その信者さんの心の中に起っている或る「事実」がホンモノの信仰なのである。
 その「事実」とは何か。
 イエスが「神の国」と呼んだ、使徒たちが「イエスの復活」と呼んだ、又教会が代々「聖霊」と呼んだ、その事実である。
 教会はそれを神話的教義で粉飾した。しかし、又、その粉飾された華美な教義より代々の聖徒たちが、ホンモノの「事実」を掴んだ事も事実である。
 私はキリストの十字架を信じる。しかし、私はキリストのあの木の十字架が、オマジナイのように私を救うとは信じない。ある人にとり、あの十字架像が、オマジナイのように効いたことは事実であるが、その事実の源泉は実は十字架にはなく、「神の真実」にある。私が信じるキリストの十字架とは、神の捨身の愛である。捨て身の愛、身代わりの愛は生命界をささえる法則である。その法則は、法律のような冷たい公理のようなものでなく、血も涙もある人格的法(カルマ)である。
 自然界における最高の進化の姿は「人格」である。故に宇宙の終局像は少なくとも「人格」以上のものである。人間もしくは人間以上のものでなくてはならぬ。故に、もしありとせば人間を救う最高の法(カルマ)は人格的なものである。その人格的法(カルマ)が百%化身する時、イエスという方になるのである。
 これが私のキリスト教である。私のキリスト教は、キリスト教という名前も、イエス・キリストも聖書も教会も必要としないキリスト教だ。
 さよう、必要としないけれど、私は神を呼ぶ時やはり「イエス・キリスト様」と呼ぶ。彼を通して拝する神が私にとり最もぴったりする本当の神の姿なのである。
 同時に、私は聖書も教会も破棄しようとは思わない。そんな事を言うだけで「バチ当り」のような気がすると言うのも偽りのない処だ。
 キリスト教も聖書も教会も、教会の信者さんが言うほど百%完全なものと私は思っていないけれど、しかし、いかに欠陥が目についても子にとり親は尊敬と愛の対象であるように、私にとりキリスト教も聖書も教会も神聖である。
 キリスト教は、天才民族のユダヤ人が造り出した宗教だから尊いのではない。キリスト教は優秀なヨーロッパ民族が伝えてくれた宗教だから立派なのでもない。キリスト教の神聖さはキリストの人格にある。それは人格というよりも神格的実存と云うべきもので、それを聖書は永遠の生命という。神のイノチである。その神のイノチが、イエスという方に純粋に、まじり気なく、大らかに堂々と表わされている。
 人間は水を必要とする。水は人を生かす、砂漠で渇いた人にとって泥水も、彼にとりありがたい水であろう。泥がありがたいのではない。泥に混じった水がありがたいのである。その水が人のかわきをいやす。水は純粋に水である。泥の中にあっても水は誤りなく水である時、人をいやす。キリストの魂は生命の水である。イエス・キリストにはその生命の水が、よごれる事なく、にごる事なく、つきる事なく、豊かに溢れていた。
 「我に来たれ」
 と仰せ給うイエスの中には、そのような豊かな生命が溢れていたのである。
 キリスト教をしらず、歴史のかなた、或いは辺境に、或は共産主義国家に生れて他の宗教、或は他の思想に生きる人であっても、キリストという名前は別にして、その生命にふれる人は永遠の生命を持つ。
 ロケットを駆って、他宇宙に行き、人間の形とは全く違った知的生命に会うかもしれない時、私達がそこで伝えうる真理は、そういう人間(ひいては物質、存在のすべて)の背後にいます人格的永遠の生命(これぞキリスト)についての事しかないのではあるまいか。
 宗教のエキュメニカル運動(ゆくゆくは汎宇宙的に)は、ここに目をとめなければ、所詮一宗派一セクトの城がため作業になってしまうであろう。
 (1972.6.24「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)


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by hioka-wahaha | 2011-03-22 10:59 | 日岡だより
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