No.185 大事なことは……? 2005.7.17

大事なことは……?

 大事なことは主イエス様と親しくなること、主イエス様を信じること、主イエス様に従うこと、これである。そしてますます、主イエス様と親しくなること、つまりウェストミンスター信仰告白に従えば神様をエンジョイすること(これは永井信義先生に教わった)である。

 電話で随分聞きづらい思いをした。補聴器の掃除をしたら、よく聞こえ出した。神様の声を聞くためにも、もっと霊の耳の掃除をしなくてはならない。

 マタイ12:36の「無益な言葉の言い開き」というところを勉強した。「言い開き」という言葉がギリシャ語ではロゴス(ことば)である。第一ペテロ3:15では「説明する」と訳されている。

 最近、「親しい仲間同志の特徴はムダな会話が多いことなのだそうだ。そうならば、イエス様ともムダな会話を多くしよう」などと言っているが、真面目な先生がたから叱られそうで心配だった。上記の勉強でやや愁眉を開いた。無益な言葉が全部いけないのではない。説明できれば良い訳だ。

 聖書の語句の勉強は耳の掃除に似ている。これらの勉強については、教文館の「聖書語句大辞典」と黒崎先生の「新約聖書語句索引」がなんと役立つことであろうか。
 特にこの「新約聖書語句索引」を私の若い時に買って贈ってくれた妻に感謝する。まだ結婚前であった。妻は当時の貧乏のさなかで大枚をはたいて買ってくれたのである。

 私たちの教会の礼拝室には日本のクリスチャンの大先輩の書が2枚掲げられている。一人は内村鑑三先生、書は「禁酒非戦」と先生らしい武骨な言葉、武骨で下手な(失礼!)字である。
 もう一人は賀川先生、書は「博愛」。これは又、通俗的な言葉だな、と不審に思っていたが、出典はテトス3:4、原語はフィラントローピアである。人類愛と訳すべきか。これも賀川先生らしい。

 このフィラントローピアという言葉を上記の黒崎先生の「新約聖書語句索引」で調べると、使徒行伝27:2、同28:2にも出てくる。ローマの軍人ユリアスやマルタ島の人々がパウロやパウロ一行の人たちに「親切」であったという時の言葉に使われている。
 「この人々は、もしかしたら神の国に招かれるかなあ」、などと考えるのは行き過ぎかなあ。ともあれ、親切はよいことなのだ。(某日、日記より)。


「幸いなるかな、心の貧しき者」

 伊東直士兄は私の旧い信仰の友である。同兄の発行する家庭雑誌「牧草」第四四号をお送りくださった。家庭新聞というのは時々あるが、家庭雑誌というのは珍しい。この雑誌発行の謂れについては書き添えたいことが山ほどあるが、今回は割愛する。
 この「牧草」第44号に同兄の御父上のキリスト教入信記が載せられていた。この方、伊東栄兄は明治10年(1877年)に生まれ、昭和35年(1960年)に召天された。
 御父上が東京に遊学され、青山学院で院長・本多庸一先生の聖書講義を聞かれた時、マタイ5:3の「幸いなるかな、心の貧しき者、その人は天国のものなり」という聖書の言葉に触れた。
 この言葉が伊東栄兄に深い霊的感銘を与え、その後の人生の歩むべき方向を決定づけられたようであると、ご子息の直士兄が書いている。
 この「幸いなるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」という聖句は大抵の人は知っている。また「心の貧しい」とは当時のイエス様の時代では「謙遜な」という意味に使われていたという説明も、よく講壇から牧師が語る所である。そして、謙遜に神を求め、神に従う人は天国に行けるのですよ、これに勝る幸福はありませんねえ」と結ぶのが通例かもしれない。
 しかし、その時、本多庸一先生はこう語った。「この冒頭に書かれている『幸いなるかな』という言葉は、事実、原文のギリシャ語の聖書でも、文頭に書かれているし、英語の聖書でも最初に Blessed とある。この『幸いなるかな』という言葉は、心して意を強めて読まねばならない」と。
 そして、御父上の栄さんは、このお言葉を神様の招きの言葉として受けとめ、「ここにお出でなさい。ここにあなたの幸いを知る世界がありますよ、と呼びかけ、また招き寄せて下さっているのだ」と思ったのです、とご子息の直士兄は書いている。直士兄は更に言葉を続ける。
 父は、この言葉を「幸いを約束する言葉」だと考え、誰も保証なんかしてくれない我々の幸福を、キリストは約束して下さっているのだと思ったのです。
 そしてこの言葉には聴く者の生活を全く新しく造りかえてします創造的な力がこもっているとも考えました。
 ここには単に聖書の言葉を耳で聞き、目で読んだというだけにとどまらず、イエス様の言葉が学者のような言葉でなく権威があって、聞くものが驚いた(マタイ7:29参照)というような権威があったということです。
 この権威とは偉い人の上からおっかぶせるような威厳ある風格というのではなく、聞く者の内心(霊)に浸透し、内側から人を変革させる力を持っていた、そして今も尚、聖書を読むものに、聖句の背後にあるキリストの力を感じさせるのである、と直士兄は敷衍されるのです。
            *
 釘宮言う。私も最初は、このマタイ5:3のお言葉の素晴らしさには気がつきませんでした。このみ言葉について、御父上様にとり本多庸一先生が果たしてくださった役目を、私には手島郁郎先生がなさってくださった。
 手島先生は「幸いなるかな」を英語でなくてギリシャ語のマカリオイという言葉を使って教えてくれました。又、同じようにギリシャ語で解説すれば、「貧しい者」という言葉はプトコマイという言葉で、その意味は「乞食」だということも教えてくれました。「乞食のような心で主様にすがりつくように求めるんだよ」とも言いましたが。
 大事なことは、文語訳聖書の以後、口語訳など「心の貧しい人は幸いです」と言うように、平板に訳しているけれど、これは惜しい。本多庸一先生が青山学院で教えられたように、この「幸いなるかな」という言葉を真っ先に持ってきて、勢いをつけて訳すべきです。
 私はこの聖書の箇所を「イエス様の幸福宣言」と呼びます。イエス様はその権威において、「お前たちは、どんな境遇や、どんな精神状況に居ろうと、私は宣言する、お前たちは幸福なんだ。また私はお前たちを必ず幸福者にする。すべて重荷を負うて苦労している者たちよ、私のもとに来なさい、私のふところに飛び込みなさい、あなたがたに真実の平安を与え、幸福にしてあげる」とおっしゃるのだと私は言いたいのです。
 イエス様の宣言は生半可なものではない。私たちの生来の罪、生涯に為し来たりし全ての罪を一切赦し、更に清め、力を与え、愛と善の人生を送らしめ、クリスチャンとして完成させ、天国に迎えてくださる凄い約束なのです。
 イエス様のお言葉には神の力があります。逆に悪魔の言葉には悪魔の力があります。同様にクリスチャンの言葉にはクリスチャンとしての力があるべきです。クリスチャンはすべて、この尊い力を頂いているのですから。
 これこそ「告白の力」です。大胆な言葉の力を日本人は昔から言霊(ことだま)と言って、この力を知っていました。しかし、残念ながらイエス・キリスト様の力を知らなかったのです。
 私はまた、イエス様との「会話の力」とも言っています。足立姉の詩集にあります。
   いつも喜びなさい、ハイ。
   絶えず祈りなさい、ハイ。
   すべてのことに感謝しなさい、ハイ。
 この会話を繰り返してください。そして、次は永井明先生のお勧めです。
 「毎日3度は、鏡の前に立って、自分の顔に向かって言いなさい。『いつも喜びます。絶えず祈ります。すべてのことについて感謝します』とね」。ある、いつも顔の暗い人がいました。この永井先生の奨めに従って毎日「いつも喜びます、絶えず祈ります。すべてのことについて感謝します」とやっていました。そうすると、最近ではすっかり明るい朗らかな人に変わった、ということを聞きました。私はこうしたイエス様流の明るい約束の言葉を「天国語」と呼んでいます。
 日常座臥、常に「天国語」を語りましょう。特に3か月以上続けたら、奇蹟的変化があなたの人生に起こることを私は信じます。キリストの福音が単に来世的なことにとどまらず、今日只今、私たちの人生に実現する尊い偉大な力であることを、すべてのクリスチャンに実証してほしいものです。《く》

〔福音春秋〕
 1、2頁に書いた短文スタイルは、かつての亀谷凌雲先生の真似です。先生の一枚雑誌「十字架」に載せられた短文形式の信仰語は天下一品でした。
先生は蓮如上人の14世(?)だったので代々の寺の僧職を継ぐべきでしたが、東大の哲学科に在籍中、イエス様の福音に触れられ、そして牧師になってしまった。その経緯は先生の名著「仏教から基督へ」に詳しい。仏教を棄てるのではなく、まして仏教に背くのでもない。仏教を完成させるキリスト教の神髄を先生は語る。先生が召されて、もう幾年たったのか。なつかしい先生を憶う。《く》
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by hioka-wahaha | 2005-07-17 00:00 | 日岡だより
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