No.479 地震は国や、国民に対する警告である 2011.3.13


【このたびの東北地方太平洋沖地震により被害にあわれた方々へ、お見舞い申し上げます。同時に、神様の深い憐れみと慰めがありますようにと切に祈ります。
なお、当教会に託された義援金を、日本国際飢餓対策機構(郵便振替 00170-9-68590) に送らせていただきます。】

地震は国や、国民に対する警告である 

 「地震は国や国民に対する警告である」と言うと、そんな言い掛りをつけるなと、反問されそうである。しかし今、この日本に日蓮さんが、もう一度生まれて来たら、それどころか、もっと厳しいことを言うと思う。
 聖書を開いて見ても、地震は預言者たちの警告や、世紀末というような厳しい時代や、堕落した世相への神の批判として受け取られていることが多い。
 今回の東北地方太平洋沖地震は旧約聖書の預言者をまねて、その観点で受けとめてみよう。現時点の日本を見据えると、正に「そうです、そのとおりです」と謹んで答えたくなるではないか。
 大事なことは、現在の政治家や官僚諸君を批判するのではなくて、私たち国民自身が自ら反省して、この愛する自分の国を如何に愛し、如何に支えていくか、である。《く》
 

賜物なる「回心」を求めよ 

 私の父は旧制の中学校も中途退学らしく、ある意味で我が侭な人だったらしい。家に財力もあったし、祖父の理解もあった筈だ。しかし、学校が嫌になったのであろう。その辺の機微は私は知らない。
 父に最も恩義を感じるのは、父が本当の信仰を教えてくれたことだ。尤もそれは直接にではない。母を仲介してである。それはこういう経緯である。
 母がよく語ってくれた。「私は一生懸命お父さんに仕えた。聖書にあるとおり、妻は夫に仕えよとあるでしょ、そのお言葉に従って私はお父さんに、お仕えしたのよ」
 私は母の言うことは本当だろうと思った。母は嘘をつく人ではない。
 「そうしたら?」と私は母に尋ねた。
 「そうしたらね。お父さんは私にこう言ったの。お前が私によく尽くしてくれることはよく分かる。お前のような嫁さんは世間にいないだろう。有り難いよ。しかし、たった一つ足らんことがある」。
 母はびっくりして尋ねたそうだ。
 「何よ、たった一つ足らんものって」
 母が勢い込んで尋ねると、父が言う。
 「あんたは細君としては最高だよ、よくしてくれるね。しかしね。たった一つ足らないのは、イエス様が分かっていないということだ」
 父としては、思い切って口にしたことであろう。母はビックリしたし、腹も立ったし、そして不可解であった。
 「私がイエス様が分かっていないって?
 そんなことあるものですか、私は宇佐郡の田舎だったけれど、中津(それ、福沢諭吉の出身地)から毎週教会の牧師さんが来てくれて、聖書の勉強をしてきたのですよ。もちろん牧師さんのように詳しい訳じゃないけれど、イエス様のこと、知らないなどということありませんよ」
 と食い下がったらしい。
 父は笑ってお茶を濁したという。このことは、後に私は直接母から聞いたのである。
          *
 私の父は早く天に召された。昭和五年三月十二日、私が七歳の時だった。
 私の親族の者たちが私に言った。「お父さんはね、隣の部屋にふすまを開けて入って行くように、天国に行ったよ」
 その時の、父が肉親の者たちとのお別れの集会をして、数日して天国に召されて行った当時の様子を私は子供ごころに覚えている。
 「僕もあんな風に死んでゆけるかなあ」
 と思ったものである。
 父の私に対する愛情は私には心に染みるように分かっていた。この父が私たちを地上に残して死んで行こうとしていることも分かっていた。
 しかし、私は悲しくも淋しくもなかった。父は死んでも、ずっと私たちと一緒に居てくれると思いこんでいたからである。
          *
 父が死んで、母は未亡人として賢く生きてくれたと思う。その理由というか、母が立派に生きてくれた訳は、実にその信仰にある。
 私が、もう十五、六歳の少年の頃だった。ある頃から、母が毎朝、散歩に出るようになった。そして半年もした頃、母は顔を輝かして帰って来た。
 「義人、義人、神様が分かったよ、いつも私たちと一緒に居られるイエス様だよ」
 と私を抱きしめるようにして言うのだ。私は興味をもって母を見つめた。母は言う。
 「今朝、大分川の岸べで祈っていたのよそうしたら神様が私に『お前を愛しているよ』と言うのよ。神様のお言葉よ、私はびっくりしちゃって、川辺の草むらのなかに座りこんじゃった。有り難い。嬉しい。こんな素晴らしい、嬉しいことはない」と叫ぶように言う。
 後で考えると母は、その頃、ある伝道団の講義を読んでいた。その中に信仰の確信を頂く秘訣を書いた記事があった。その記事が幸いしたらしい。信仰が一挙に与えられたのである。「回心」であった。
 回心とは単なる「悔い改め」ではない。私が言う回心は一つの聖霊経験としての賜物である。真実に内なる魂がイエス様を受け入れ、神様に向かって魂の方向を変える一瞬、そういうことが起こる。回心である。この回心は人の努力ではない。神様の恩寵、聖霊様の働きである。信仰が本当に人の魂に生まれる、奇しき賜物である。《く》 
 
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by hioka-wahaha | 2011-03-15 14:29 | 日岡だより
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