No.478 「空腹療法」って何でしょう? 2011.3.6

「空腹療法」って何でしょう? 

 石原結実という先生が「空腹療法」という本を書いています。その副題には「一日一回おなかを空かせば病気も治る」とあります。言い直せば、「断食をしよう」ということのようですね。
 普通断食と言えば、2日か3日は食事はしないのですね。私は若いときは、断食しました。健康法でなくて、信仰のためでした。
 カトリックでは断食を信仰のための修業の一つとして、苦行を認めているようです。私は信仰のための「苦行」という考えは好ましく思ってはいないのですが、信仰を深めるための断食ということは有る筈だと思っています。
 慣れない人には、確かに断食は苦しいかと思います。しかし慣れてくると断食はすがすがしい気持ちの良いものになります。勿論、とは言え、慣れても、断食を始めて最初の2日、3日は、いささか苦しいものです。しかし、それからは随分心が軽くなり気持ちが良くなることを知っていますから、それを期待して、気分は爽快なんです。
 つまり登山などで、最初の間はちょっと辛いけれど暫くすれば、爽快な登山気分を味わえることを知って居ますから、気持ちよくサッサと歩いて行きます。断食もそういう風に楽しく迎えられるものです。
 とは言っても、断食も20日、30日と続くとやはりきついのはきついです。私は40日の断食の後、そのまま食事もしないまま、大分県の国東(くにさき)半島の山道を登り、その果ての国東港まで歩いて行って、そこで瀬戸内海の海景色を満喫したことがあります。《く》
 

さて、その断食の結果 
 
 いや、実は途中の山中で、ある信者さんの家を訪ね、そこで休憩させて頂いたのです。私の知らぬ間に、そのご家庭の奥さんがせっせとご馳走を作ってくださった。そして、「さあ、先生、お食事をどうぞ」というわけです。
 「いやいや、折角のご馳走ですが、食べることはできません。ごめんなさい」
 とお断りするのですが、分かってもらえません。
 奥さんのお考えでは、「40日もご飯を食べていなければ、さぞかし先生、おひもじいでしょう。さあさあ、田舎の料理ですけど我慢して食べてください」と、奨めてくださるのです。さあ、私は困ってしまいまいました。
 40日も食事を入れていない胃や腸に、いきなり固いご飯を入れては、胃腸は大被害、早速、胃痛と大下痢の症状が起こることは必然です。
 そのことを私は一所懸命に説明するのですが、よく理解できないみたい。私がただただ遠慮しているように思えるようです。そして、その姉妹は熱心に「先生は40日も断食してなさるんでしょう。このうえ断食を続けては死んでしまいますよ。田舎の料理でお口に合わないでしょうが、どうかご辛抱なさって食べてくださんせ」と言うわけです。
 私はこの奥さんの愛の真情を断るには忍びなくなりました。極端に言えば、ここで固いご飯を食べて胃や腸を壊し、下手をすれば死ぬような目に合わないとも限らないが、この奥さんの愛の志にはお答えしたい。そう思って差し出された御馳走を口にしたわけです。口から胃に下って行くとき、喉や食道の反応はゴツゴツとして私の心配を更に増し加えました。しかし、
 胃の中に食べたご飯が収まったと思えた時、なんとも言えない幸福感が涌きあがってきたのです。
 ただの「おいしい!」なんかじゃない。凄い満足感が口の辺りに漂うのです。私の顔がニコリとします。思わず叫びました。
 「奥さん、有り難う、おいしい!」
 私の目には涙が溢れていました。見ると、その奥さんも泣いていました。
 後に人に話すと、私が死ななかったことは奇跡だと言われたりします。本当に不思議なできごとでした。
 そのお家は何というおうちだったか、今になっては全く分かりませんし、第一、二度そのお宅に行こうたって、国東半島のど真中みたいな森の山のなかにたった一軒建っていたお宅なんです。どうして、あのような出会いができたのでしょうか。恵まれた、感謝の声が今でも私の心に涌き起こります。たぶん、もう50年程前の恵まれた体験です。《く》

 
キリストの完全 

 キリストの完全とは、イノチの完全です。神のロゴスの完全です。規格にはまらぬ自在な創造的自発的個性的完全です。このキリストの完全を、我が心に迎え入れようではありませんか。このキリストの完全が私の内に住まわれると、私は完全なる「私」となります。それは、いわゆる聖人・君子・英雄風の完全でなく、「私」独特の完全であります。私が本当の(本来かくあるべき)私になるのであります。
 よき栄養物を取り入れると、肉体は立派な肉体になります。よき栄養物は姿をかえて肉体の新しい形成物となります。同じように、日毎の御言と祈りは、私の霊的形質を日毎に組成し、古きを捨てさり新しき生命を生みます。この内的生命を完全なる姿に成長せしめるには、目標と鍛錬がいります。
 目標は「神の全きが如く全かれ」ということです。この目標を心にとめて、心と精神と思いと意志力における鍛練を必要とします。型に流し込まれた豆乳がニガリで固まってトウフになるように、目標という型に流しこまれる日毎の霊的糧が、ニガリという日常、非日常の鍛錬によって「キリストの形の成るごとく」光栄ある人格に形成されていきます。
 右のような比喩のさい、冒頭で申しましたキリストの完全とは、豆乳の完全さを言います。材料としての原質の良さです。トウフのイノチです。私という新しい人間の、これから生長して行くべき材質はキリストのイノチであります。イノチはイノチとして、それ自体が完全であります。それがキリストの完全です。その完全を私の内に迎え入れましょう。私は第二のキリストになるのです。(一九七二・六・一八)(1972.6.24「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録) 
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by hioka-wahaha | 2011-03-08 13:13 | 日岡だより
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