No.475 日本国は基督を要す 2011.2.13

日本国は基督を要す 

 これは内村鑑三先生の言葉です。明治34年出版の「所感十年」に載っています。キリストを基督と漢字で書くのも明治らしさを感じますが、何よりも「日本国」というのが異様でしょう。明治人の習慣かも知れませんが、特に内村先生の文章には多かった習慣のようです。
 現代の私たちの世代で、日本という言葉を「ニッポン」と発音する機会は滅多にありませんね。大抵「ニホン」です。
 しかし、日本国と改まって言えば、やはりニッポンコクでしょうね。日本を何時ごろから「ニホン」と言い習わしはじめたのか知りませんが、多分、大正中期以降でしょうね。「ニッポン」という発音に恥ずかしさのようなものを感じ始めた日本庶民の気分が表れています。
 改まっては「ニッポン」だが、平素の日常語では「ニホン」のほうが柔らかくて日常会話では打ってつけである。そういう庶民意識がよく表れています。
 さて標題の内村先生の語彙ですが、内村先生が「日本は基督を要す」と書かないで「日本国は基督を要す」と書くには、それだけの抜き差しならぬ心理的要素があります。我が愛する日本のこの国にはどうしてもキリストが必要だ、このイエス様が無ければ日本は正常に立って行けない。いつかは滅んでしまう、という危機感があったことは明らかに見てとれます。
 明治大正の時代、内村先生が見て「日本国家の問題点」は、欧米文化の影響で惰弱な民主主義に流されることと、妙に頑固な日本帝国主義に傾く危険性と、この二つの傾向だったと思います。
 内村先生が第一高等学校の教員の時、式典で天皇陛下の御写真に頭を下げる時に壇上で、「これは礼拝ですか、単なる挨拶ですか」とこだわった話は有名ですが、これで「非国民内村鑑三」の名は全国に広がりました。興奮した日本主義の青年学生たちが内村邸に向かって投石活動をはじめ、内村先生の奥様は生命の危険も感じたとさえ言われていますが、そうした中で内村先生は動じることなく、基督者として誇りを保って些かも動じることはありませんでした。
 更に、大正の頃、アメリカで排日運動が起こるや、一番にこの問題に取組んでアメリカ国民に向かって得意の英語で、反対意見を発表したのも、当時としては目を見張る異色の活動でした、先生の英語はカーライル張りで重厚ですし、長年のアメリカ滞在の結果、アメリカ英語にもなじんでおられる、そういう効果もあって、後に内村先生の英文「余は如何にして基督信徒となりしか」が欧米における出版記録を出した先駆けとなったわけです。
 内村先生の凄いところは、キリスト教の伝道者でありながら、欧米の文化に惑わされず、日本人国民の骨髄に合ったキリスト教の信仰の神髄を注いでくれたということです。(しかも偏狭な日本主義者の批判に屈せず大胆に福音を語りました)。
 内村先生の愛したのは「二つのJ」でした。一つはJesus の J 、もう一つは Japanの J でした。「この二つのJ、どちらのJ を、どちらの J よりも深く大きく愛するか、その比較はしようが無い、比較を問われると悩んでしまう。私は、二つのどちらも、同じよう深く大きく愛する」と言っています。
 内村先生の「日本国と基督」という文章を以下に紹介します。
 
 日本国は基督を要す、彼に依るにあらざれば、その家庭を潔むる能わず。日本国は基督を要す、彼に依らずして、その愛国心は高尚なる能わず。基督に依りてのみ真正の自由と独立とあり、そは彼は霊魂に自由を与うる者なればなり。基督に依らずして大美術と大文学とあるなし。そは彼は人類の理想なればなり。キリスト降世二千年後の今日、我らは彼に依らざる真正の文明なるものを思惟する能わず。(明治34年5月「所感十年」より。仮名遣いは原文を改めました) 《く》
  

成功の法則 (先週よりのつづき)

 もうひとつ書きそえたいことは、「睡眠時間」の利用です。睡眠は肉体が休んで魂がさめている時です。信者にとっては最良の祈りの時間だと言えます。そこで、まずできるだけ充分の睡眠時間を取ることと、その睡眠の前に意識的「祈り」の時間を持って、「祈り」の残映、余韻を睡眠時間にくりこし、無意識的祈りの中で、「祈り」を深く打ち込むということをするのです。
 切迫した危機に際して取る態度としては、D・カーネギーの法則が最良です。
          *
(1) まず状況を大胆率直に分析して、最悪の事態を予測する。
(2) その最悪の予測を我が身に甘受すると決心せよ。
(3) 右の最悪の事態を少しでも緩和させるための方策を考えよ。
(4) その方策で為すべきことを箇条書きにし、為すべき順番をきめて番号をつける。
(5) その番号順に実行する。
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 これは、信仰の無い人でもできる魔術的公式です。この公式を前述の「祈り」をもって実行すると驚くべきことがおこります。
 二十一日の集会で申しましたが、こういう実践的明快な信仰指導のみでは、軽薄な塩ぬきの甘ったるい信仰になることを恐れます。いつも深刻な顔をして、十字架宗教の権化のような顔をしている人に、「求めよ、さらば与えられん。信ずるものには凡てのことを成就せん」というキリストの御言葉通りの「御利益」のある信仰をおすすめしたい、そう思って書きました。(1972.5.25「大分通信」より)
 (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
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by hioka-wahaha | 2011-02-15 16:20 | 日岡だより
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