No.469 新年の感謝 2011.1.2

新年の感謝

 昨年天に送った妻の、今日は誕生日です。天国で地上に生まれた日を懐かしく思い出しているだろうか、それとも地上のことを思い出す暇もなく学びに精を出しているだろうか、などとたわいもないことを考えています。
 世間では、昨年妻を亡くした私は、いわゆる喪中欠礼はがきなるものを送らねばならぬのでしょうが、もともと年賀状をこちらから出す習慣がないうえに、はて私は「喪中」なのか?と思ってみたりなどして、そのままにしておりました。前回の日岡だよりに書きましたとおり、いただいた年賀状は有り難く、控えてくださった方々のお気持ちも有り難く、受け取らせていただきます。
 ともあれ、新年おめでとうございます。今年私は、もうすぐの誕生日で89才となります。
 イザヤ書40章30節に「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」とあります。その後に「まして老人は・・・」とでも続くのでしょうか。しかし、聖書はこう続きます。
 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ40:31)
 ハレルヤ! 《く》


【過去の週報より②】(1971.9.26~1975.8.20)
1976年に教会堂が建てあげられ、「キリストの福音大分教会」となります。その週報「キリストの福音」は1977年1月2日より始まり今に続きます。1971年から1976年にかけての発行物は発行も保存も、飛び飛びです。 
      
■一九七一年九月二六日
<東パキスタンの殺人者は誰か?>
 九月二十日の朝日新聞夕刊の三面に大きな写真が載った。それは「飢えに泣く東パキスタン難民」と題して、悲惨な八百三十万人の様子を伝えている。
 東パキスタンの内乱について、私はくわしいことは知らない。政府軍が正しいのか、反乱軍の方が正しいのか、私にはよく分からない。フランスのドゴール時代の文部大臣マルローが、反乱軍の義勇兵に志願したというニュースも、昨日あったばかりだ。いろんなことを考えると、反乱軍側の方が正しいような気もする。しかし、そんなことはともかくとして、この政治のことも軍事のことも何も分からず、ただムチに追われる羊のように、おろおろと逃げまどうばかりであろう最下層のこの民衆たちのいたましさ。
 四分の一頁の紙面にかかげられた、生後五カ月目の赤ちゃんの写真は、余りにもむごい。肉がこけてしまって骨と皮だけの――あのガンジーそっくりな――赤ちゃんの姿は見るにたえない。涙をこらえ、興奮をおさえ、息をころして見つめていると、それは西欧絵画の十字架のキリスト像そっくりではないか。
 ここに、現代の如実な十字架にかかりしキリストがいる。このほほの落ち、目のくぼみ、あばら骨のあらわな生後五カ月(今ぼくらが新聞で見ている頃には、もう生命も無くなっているのではなかろうか)の赤ちゃんを見つめつつ、私は現代に生きる文明人の責任を問われる気がする。
 アメリカや日本では、食糧がふんだんに余っている。そのあり余っている文明の余沢の中で、人間は肥えた豚のように(今日アメリカでは、急進的黒人たちは白人を白い豚とよぶという)ぶよぶよむくんで、享楽とじだらくと偽の自由・平和の中で酔いしれている。
 ぼくらが、おいしくないといって食い残し、最近ではネズミすらも引いていかない一斤のパンを夢にしつつ、かの西ベンガルの沼地で人々は飢えて死んでいく。
 この人を死においやる殺人者はだれなのだ。西パキスタンの軍隊か。東パキスタンの反乱者か。ソ連か。アメリカか。否、……果たして、このぼくではないのか。君ではないのか。
 日本の余った米を送れという声もある。そういう事をどういうわけか日本の政府は取り上げない。人づてに聞けば、いろいろな国際関係のつばぜり合いの中で、送りにくいものらしいし、また実際に出荷したところで、インドの悪徳商人や政治家の間で手からこぼれる砂か水のように散ってしまい、最後の目的たる難民の手許には届かないのだとも聞いた。
 そういうことを聞いても、やはり私どもは一握りの米を送りたい。インドに向う風があるならば、風船に乗せてでも送りたい。そう思うのは子供らしい世情にうとい願いであろうか。
 世界中の民が、共にうれいあい、助け合うべき時代が今来ている。交通機関や通信機関の発達はムダなことではない。ぼくらはかつてのビアフラや、今日の東パキスタンの惨状を我が片手、片足の痛みの如く聞き、知ることができる時代だ。それなら又、彼らを救い、彼らの痛みをとどめようと、心のうめくのも当然ではないか。

■一九七一年一〇月一〇日(大分通信No.2)
<人間を改革せよ!>
 人生とは、平均的に見て、苦しい不如意な淋しい処である。
 そこを喜々として生きる。充実して生きる。不動の生き方をする。そういう生き方は、人は知らず、私には信仰なしにはできない。祈り抜きにはできない。聖霊のご加護なしにはできない。
 活き活きとした人生、その人のまわりで空気が光りかがやいて見えるような人、喜びのうずまきで周囲をなぎたおしているような人、そういう人でなくては、本当の革命はできない。人の心を変え得ない。
 人間の心をますます改革しなくては、道路を作っても事業をおこしても、国際経済や軍事同盟に手を加えてもダメだ。世界の最大の仕事は人の心の改革である。

<キリストに求めよ>
 一切の解決を、キリストに求めよう。
 難関に立って、キリストを忘れ、他に救を求めるは冒涜の業である。
 すべての智恵と力は、キリストの内にかくれてある。
 今も活きて、この宇宙にみちみち、霊界にみちみち、そして我が内にみち給うキリストこそ、私の解決者である。
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by hioka-wahaha | 2011-01-04 10:14 | 日岡だより
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