No.468 もの忘れ症候群 2010.12.26

もの忘れ症候群

 最近、物忘れがひどくなりました。いわゆる頭がボケてきています。もの忘れ症候群です。
 忘れるはずのない長年の親しいかたのお名前でも、ヒョイと忘れていることがあります。
 「あなたのお名前、なんとおっしゃいますかね」などと、お聞きする訳にも行かず、困っています。「先生、私の名前を忘れたのですか?」と呆れられそうですが、そんな兆候が私に見られたら、遠慮せず
 「先生、私ですよ。××ですよ。分かりますか」と、おっしゃってくださいね。
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 先日の祈祷会でも、私のメッセージで同じ話題の繰り返しが多くて、皆さん気になったらしい。後で聞いて、恐縮しました。
 ところで、使徒ヨハネ先生も年をお取りになると、そういうことが多かったらしい。
 「主があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」と何度も語った。とうとうある信徒が「先生、そのお話は何度も伺いました」とご注意申しあげたら、
 「いやいや。このお言葉が一番大事なんだ。この主のお言葉以外に、言うことはないんだよ」と言ったそうです。
 私も主のお言葉のみを繰り返すものになりたいものです。《く》


【過去の週報より①】   (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年七月一一日
神の光をのみ見上げて
 先日、私の年長の友であるK氏が訪ねてきた。最近、人の手形の保証をかぶって、経済的に相当行き詰まっていると聞いていたので、そのことの相談かと思ったら、そうではない。ごく些細なことがきっかけだけれど、自分がいかにも妻や子に対して申し訳ない人間か、何とも罪ふかい人間かと悩んでいるのである。
 「ああ、我悩める者なるかな、この死の体より我を救わんものは誰ぞ」とパウロが悲嘆の声をあげたローマ書第七章をひらいて、共に祈ったことでありました。
 人は誰でもはじめ「自分は正しい、人が間違っているんだ」と自分をかばい、人を責めるに急です。そういう生まれながらの肉的人間は、なかなか神の声を聞きません。素直に聞き入れません。そのような人物の心が急に一八〇度転回して「私が悪かった」と思うとき、急に神の声を聞き得る通風孔がひらきます。
 私たちがいくら声を大にして神の福音を語っても、人が聞いてくれないのは、私たちも悪いのだろうが、それ以上に世の人々の耳をふさぐサタンの手の働きによるのでして、私たちは余り気落ちする必要は無いのです。
 このK氏のように、急に目がさめて自分の罪に気づく時、魂は海綿が水を吸いこむように福音を受け入れます。
 病気なおしや、金もうけや、家庭円満、秀才児の育児法なら人はワンサときましょうが、人の心の罪のうずきに応答する宗教に世間の人気はないのです。キリスト教とはそういう宗教であります。キリストという名の有無にかかわらず、人類の真正の宗教はそういうものであります。
 ところで、このK氏のように自分の罪に目ざめたら、もう一度心を一八〇度転回させて「我汝を許す」と言いたもう神の光をのみ見上げて、二度とおのれをかえり見ぬことです。一八〇度転回し、また一八〇度転回して三六〇度くるりと廻るとき、元の処に帰るのでなく、ラセンの道をまわって一段上に昇る、信仰の昇華の道であります。
 
■一九七一年七月一八日
古い型の信仰
 私どもの信ずる信仰は、古い古い信仰である。
 二千年前パウロやヨハネが信じ、アウグスチヌスや、ルターの霊的血統に見られる、古い古い型の信仰である。
 しかし、その古い型と言うのは、ローソクをともしたり、ひざをかがめて祈ったりする外面上の形式ではない。
 心の型である。日本の芸道において、その道をきわめる道程を「守破離」と称して表現している。お茶がコンクリートビルの一室で椅子席で行われ、活花の材料に時代的変遷はあろうとも、その道程が師匠の技を見よう見まねで外面的技術において熟達していき、それが内面的に浸透するにつれ破れ果て、ついにその成果と評価より意識がはなれて天地一体の超意識にまで至る、そういう成長の型はかわらないのである。
 宗教において、成聖とは行いすました脱世間人になることではない。神秘的超人になることでもない。
 人の世の四苦八苦に目ざめ解決を求めて、シャカは出家して山に入ったが、再び世に戻った。
 イエスは人の世の罪を救わんと、一度はヨルダン川の流れに身をひそめたが、再び人のこみ合う街に帰ってこられた。
 我々は信仰を求めて一度は世間に背を向ける。俗っぽい自我愛、肉親愛、金銭愛、名誉愛に傷つき、破れて、真実なるものを求めははじめる。そういう心の「破れ」がパウロ、アウグスチヌス以降の霊的祖先たちの特長である。
 そういう「破れた心」が神の言葉により「復活」を体験する。それが信仰である。その復活体験のみなもとが、自分の中から出ず、自分の内的経験ではあるけれども神の側から出ているとひたすら感じるのが信仰である。
 親鸞は、私どもの信心は私たち自身のはからいでできたものではなく阿弥陀如来のおはからいによるものだと言っている。似たようなことを日蓮も言い道元も言う。
 しかし、そういう信仰の芽ばえの源泉を、神とか佛とか天地とか自然とか宇宙とか言わず、グサリ一刀を入れる如く「それはイエス・キリスト」であると言いきれる処に、ありがたい、すばらしい私の信仰がある。
 
※今年2月に妻を亡くしましたが、私は喪中とは思っていません。年賀状は喜んで受け取ります。ただし、こちらから出さないでお返事になってしまうのは例年のことなのでお許しを。(釘宮義人)

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by hioka-wahaha | 2010-12-28 12:59 | 日岡だより
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