No.467 われ聖なればなんじらも聖なるべし(二) 2010.12.19

われ聖なればなんじらも聖なるべし(二)

 「日岡だより」453号の文章に書き足しています。
 口語訳聖書では「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」とあるのですが、これはペテロの第一の手紙第1章16節にあるみ言葉です。
 しかし、標題にした「われ聖なれば、なんじらも聖なるべし」という文語訳の聖句は、「私たち年配の者の心には焼きついています」と書きました。口語訳のみ言葉は分かりやすい点は良いのですが、心に訴える強さでは文語訳にかないません。
 実は、この「なるべし」という日本語の訳の言葉は、原語の意味を離れて実に面白いと思うのですよ。
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 「……べし」という日本語の文語における接尾語は「命令形」でもありますが、また「当然性」を表す「明日は必ず晴なるべし」というような使用法もあります。もう一つは、想像を表す表現でして「彼女は彼の愛人なるべし」というような使用法です。
 もう一つは、強い意志を表します。「我が輩は今度の選挙で最高当選やるべし」なんて言い方です。可能性の表現でもあります。こういうふうに「べし」という言葉の意味は深いのですね。
 だから「われ聖なればなんじらも聖なるべし」という言葉を、私たちが如何に受け取るかということで、随分変化ある御言の解釈ができます。その点を私たちの信仰の成長のために上手く利用できます。
 第一番には、素直に命令形と受けとれば、「私(イエス様です)は聖なのだから、お前さんも聖なるものになりなさい」と言う意味です。「ハイッ、私は聖なる者にきっとなります」と命令服従系で受け止めます。
 第二番では、当然形に受け取れば、「私(イエス様です)は聖なのだから、お前さんも当然、聖なる者になりますよ」と恩恵的な言葉になります。「ハイッ、有り難うございます。私は当然、聖なる者になるのですね」と感謝してイエス様のお言葉を受けとめます。
 第三番では、可能性に受け取りますから、「私(イエス様です)は聖なのだから、お前さんも当然、聖なる者になることができるのですよ」と言う意味になります。「はい、私も聖なる人になれるんですね」と、将来に希望を抱きます。「私はきっとイエス様みたいになれるんだ」と有頂天になるでしょうか。
 このように、同じみ言葉でも受取り方が違うと、受け取るクリスチャンのがわの恵みの程度も違って来ます。「今、そのままで、お前さんは聖なるクリスチャンですよ」と正直に受け取ることができると、その人には、その言葉が実現します。その人はそのまま、聞いたまま信じられて、何の思いこみも、信念の努力も、不要である。あなたは聖なるクリスチャンになることが出来る。
 要するに、大切なことは信仰です。天地を造られた主なる神、イエス様が「私のようにお前さんも聖なる人になりますよ」と仰せられたお言葉を、ただ、ひたすら信じる。そこに奇蹟がおこる。即座に、あなたは聖なる人になっているのです。信じましょう。
 あなたが、完全にこのことを信じるなら、あなたはその言葉のとおり、全き聖い人になります。半分信じるなら、半分聖い人になります。
 この「われ聖なればなんじらも聖なるべし」というお言葉を如何に受けとめるか、私たちの信仰の「進歩、成長、強化、増殖、拡大、栄化」の前途を夢見ようではありませんか。
 この夢を真面目に心に抱き、持ち続けましょう。この信仰の継続が私たちを更に栄えさせてくれるでしょう。
 これらのことは、とても私たちには及びもつかないことのようでありますけれど、しかし天の神、主イエス様のように聖(きよ)くありたい。これは主を信じ、主を愛する私たちの当然の願いです。とても達し得る境地ではありそうもないけれど、しかし是非とも与えられたい。
 453号の最後の文章をもう一度書きます。
 イエス様、あなたの聖(きよ)さを、私どもにお与えください。お分かちください。
 切にお願いいたします。
 私の貧しい理解ですが、神様の愛と義が一つになるとき、それが聖なのだと思います。
 その聖の何百万分の一でも良いですから、神様に頂きたいです。神様、是非! 《く》


【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年六月二七日
<エリ、エリ>
 先週の日曜は、久しぶりに“我が福音”である「主の御名を呼ぶ」という教えにひたりました。
 これは一つには金池小学校の田坂校長先生が貸してくださった「キリストの死んだ日」という本の中で、不思議にもイエスの「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という有名な言葉が印象に残ったからです。
 「エリ、エリ」とは「神よ、神よ」ということです。その訴えのあとでイエスは何言か大声を発して息が絶えたと言います。その時それまでイエスを嘲笑していた百卒長が、「げに、この人は神の子なりき」と言ったのです。
 「我が神、我が神、なんぞ我をすてたまいし」とイエスが死のまぎわ見苦しくも取りみだして泣きべそをかいたのなら「げに、この人は神の子なりき」と百卒長ほか、そこに居た人々の胸を打つことは無かったでしょう。
 「エリ、エリ」と神を呼ぶ、そこにイエスの信仰の秘儀をかいま見る心地がいたします。
 「主の御名を呼ぶ」については、私の小冊子「事業を活かす信仰」の第三章をお読みください。
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by hioka-wahaha | 2010-12-21 10:27 | 日岡だより
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