No.466 吉報来たる! 2010.12.12

吉報来たる!

 クリスマスを前にして、嬉しい報告が来た。西宮市のMさんからである。「確信を与えられた」という証しである。
 内村先生は、当時のアメリカ英語だろうか、コンポルジョンと呼んでいたが、これがなければ本当の信仰じゃないという言い方をしていた。今、アメリカでは「コンバーション」と呼んでいるらしいが、あるアメリカの方が「コンバージョン」ではなくて「コンバーション」なんですよ、と教えてくださったが、私はともかく、昔ながらの「回心」と呼びたいのです。Mさんの証詞を以下に載せます。《く》
    *     *     *
 釘宮先生
 ハレルヤ!!!イエス様のお名前を褒め称えます。
 先生の日岡だよりを送っていただきはじめてから私は明確な救いの確かさに渇くようになりました。先生の「救いの確かさ」や「日岡だより」を毎日無我夢中で読んで導いて戴き本当に感謝です。
 これらの小冊子がなければ回心について一体私はどうしたらいいのかわからなかったと思います。
 その状況をお証しさせて戴きます。
 ヒタヒタと聖霊様の風がここ三週間くらい迫って来ていたのですがとうとう昨日、明確に救いを確信しました。
 三週間くらい前からと書きましたが「どうして私はもっと早く教会に行かなかったのだろう?」という疑問が生活している中で私に問いかけてきました。
 私はキリスト教主義の幼稚園に行ったので教会にとても惹かれていたのです。
 その問いかけはとても苦しくただただ「なぜだなぜだ」と迫って来るのです。
 昨日午後三時頃やはり日岡だよりを読んでいました時に電光石火のごとくその答えに気が付いたのです。
 「ああ、それは私が自己中心の問題を軽視して神様の処に行かなかったからだ!!」と。
 その時、私にその裁きによって私の心に(霊に?)刺さっている鋭い木の破片の幻をはっきり見たのです。すぐさまヨハネⅠ一章九節に従って「自己中心」と「神様の元へ帰らなかったこと」を告白いたしました。
 そうするとはっきりとイエス様の十字架と二人の犯罪人の三本の十字架が幻で示され、赦されたと分かり、心が温かくなり(ここは怖れ多くも釘宮先生に似ています。)、こんな私がイエス様のような罪のない方の義を戴いたことがはっきり自覚出来ました。木の破片も取り除かれて感謝です。
 感謝しつつご報告もうしあげます。(M)
           
 
【過去の週報より①】  (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年六月六日
<たとえ出っ歯でも>
 あるバスガールをしている娘は、もともと歌手志望であった。不幸にして彼女の器量はよくなかった。口が大きすぎるし、そのうえ出っ歯であった。彼女がはじめてバスの中で歌ったとき、上唇で出っ歯をかくそうとした。彼女は上品で魅力的仕草をしてみせたつもりだったが、かえってコッケイになってしまった。彼女の行く手には失敗が待っていた。
 ところが、それを見ていた乗客の一人に有名な作曲家がいた。彼はその少女の才能を認めて、あとで呼びとめていった。
「ぼくは君のやることを見ていたが、君のかくそうとしているものはすぐ分ったヨ。歯が気になるのだろう」
 少女は顔を真赤にしてだまりこんだが、作曲家はかまわずに言葉をつづけた。
「それがどうしたというのだ。出っ歯は別に君の罪ではない。何もかくすことはない。思いきり口をあけてうたうんだヨ。みんなは君の少しも悪びれない様子を見てきっと可愛く思うよ。そして多分、君が今までかくそうとしていた出っ歯のおかげで、かえって運がひらけるかもしれん」
 彼女はそれ以後、出っ歯のことを気にしなくなった。そしていつも堂々と、力いっぱい、口を大きくあけてうたいまくった。そして当代一流の歌手になった。(キャス・ダーレエ)
 「あなたは、あなた以外のものでない」
    (「こうすれば信仰がわかる」に収録)

■一九七一年六月一三日
<いくら信仰、信仰と言っても>
 いくら、信仰、信仰といっても、自分をいつわって信仰しているつもりになっているのは、困るんです。
 本心では、少しおかしいなァと思いつつ、まあみんなも信仰しているのだから自分も信仰している格好をつけようとか、ご利益があるので信仰をつづけようとか、若いときに信仰に入って熱心にやってきたので今更この信仰をやめられるかと意地をはっている信仰とか、ホンモノでない信仰がいろいろあるんです。
 ホンモノの信仰とは、神さまの方から与えられて、いくら疑ってみても我が内に泉のようにわきでて、たたえられている信仰です。
     (「こうすれば信仰がわかる」に収録)

■一九七一年六月二七日
<ヨハネ第一書の講義>
 私は神様のお言葉をできる限り、ナマで語りたいのです。それほど面白い話ではないでしょうが、私の経験に裏打ちされた、掛け値のない話であります。
 スーパーマーケットの大安売りのように、水増しして誰にも喜ばれる修養談ができないのです。私の語るところは、取っつきは悪いし、むつかしいし、聞くのが大変かもしれません。私は皆さんの感覚に訴えるようなことは言わないからです。
 私はこの日より、ヨハネ第一書の講義に入ります。これは私の生涯において、一つの分岐点になる聖書講義になるであろうと予感しています。生命をかけて、この一書を読み通したいと思っています。ご参集を乞う。
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by hioka-wahaha | 2010-12-14 15:07 | 日岡だより
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