No.465 愛が最高の徳 2010.12.5

愛が最高の徳

 また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(コリント人への第一の手紙13:2下、3)
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 使徒パウロ先生の有名な「愛の章」の序言みたいな部分である。
 今回の標題は、本日の礼拝メッセージの題でもあり、教会前の路傍に立てる看板のためにN兄に昨日書いてもらった一句である。後で考えて、「愛は完徳の礎」とすればよかった、と後悔したのであったが。
 「完徳」という言葉は、かなりカトリック教会的表現かもしれないが、遠慮しないで求めるべき境地であると思う。そんなことを言うとこんな答が返ってきそうだ。
 「めっそうもありません。私は駄目な者です。なかなか信仰も進みません。深まりません。いつまでも弱い信仰です。心がいつも汚れています。もっと聖められたいのです。どうしたら良いのでしょう。当然、もっと祈るべきだと思いますが、なかなか祈れません。聖書ももっと勉強したいのですが、聖書日課を一日一章読むのが精一杯です。時々、五章も十章もまとめて読みますが、めったにしません。
 伝道など、とうていできません。よほど親しい人に遠慮しいしい、教会に誘ってみますが、私の普段の生活を見てさほど感心してくれないのでしょう、一向に来てくれません。
 せんじ詰めれば、私の心に確信がないのです。イエス様にあがなわれ、救われているという信仰は一応持っていますが、それが確信と言えるかどうか、はなはだ疑問です。洗礼を既に受けておりますが、それもイエス様を信じていることにしているだけだと言えば言えそうな感じがします。」
 これはなかなか正直な告白です。多くのクリスチャンの方々が同様の返事をなさるかもしれません。
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 信仰とはイエス様による恵み、即ち愛による頂きものです。
 あなたが決心して、あなたの意志力でイエス様をあなたの救い主として信じる、ということではないのです。
 多くの方々は「信仰とはイエス様を信じること」だと思っています。それは、そうに違いありませんが、正確に言うと、
 「イエス様の所有されるイエス様の信仰をそのまま頂戴すること」
 なのです。
 日岡だより461号にも書きましたが、ピリピ人への手紙第3章9節によると、邦訳では「キリストを信じる信仰による義」とありますが、この部分を私なりに直訳すると、「キリストの所有される信仰に基づいて与えられる義」となります。
 私たちの信仰ではなくて、「イエス様が所有されている信仰」によって与えられる義なんです。つまり、私たちが救われるのは、私たちの持っている信仰ではなくて、キリストが持っておられる信仰により救われるということです。
 では、どうすればいいのでしょうか。それは、イエス・キリスト様の愛による信仰にわたしのすべてを委ねることです。そこに私たちの救いのすべてがあるのです。私たち人間の愛ではなく、イエス様が抱かれておられる愛です。《く》


【過去の週報より①】   (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年五月三〇日
<主のめぐみかたるは楽し>
 一、主のめぐみかたるはたのし
    主はまことの友なれば
   主は我をまたく変えたり
    そはだれも為しあたわじ
  〈おりかえし〉
    エスのごとき愛なく
     やさしき友はなし
    罪とやみを取り去りたもう
      ゆたけき愛よ
 二、わが人生、罪にみちて
    なやみくるしみ迫れど
   エスはつよき愛の手のべ
    行くべき道に引きたもう
 三、主は日々証しもて来たり
    みむねあきらかならしむ
   されど遂にさとるを得じ
    主の我をえらびし理由
      (いのちのことば社勝利の歌より)
   
 最近、毎日マヘリア・ジャクソンの聖歌を聞いてすばらしいなと思う。先週NHKの「世界の音楽」に出たのを見なかったのは、かえすがえすも残念である。技巧的のことは学ぶべくもないが、信仰の限り、心の限り、力の限り唱うあの熱情と誠実のこもった歌唱法は学ぶべきだ。(日本人の歌手としてはアイ・ジョージを思い出す。)
 さて、今回の練習聖歌は、C・F・ウィーグルという人の、”No one ever cared for me like Jesus”という歌。私が少し流布本の和訳を改訳した。たとえば三節第一行 
”Everyday he comes to me with new assurance”
直訳は「日々主は新しい保証(確信)をもって我に来たる」。流布本では「主は日々確信をあたえ」と訳してある。私は「主は日々証しもて来たり」と訳す。この訳の差異はAssuranceという英語の実感の仕方いかんによる。こういう時、適訳は辞典をいくら引いても分からない。内村鑑三のいう「実験」がいるのである。
 右の一句、もっとよく意訳すれば
 「主は日々新しき臨在もて」
 というところであろう。(K)
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 私はどう考えても、善い先生になれそうにない。私は永遠に求道者なのです。共に学ぶ、共に祈る、共にはげむ、そういう人しか私にがまんできないでしょう。(K)
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by hioka-wahaha | 2010-12-07 13:49 | 日岡だより
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