No.462 天に在る聖徒の祈り添え 2010.11.14

天に在る聖徒の祈り添え

 御生前、イエス様を信じる信仰に生きて居られた方々は、今天国に召されて、三位一体の神様の御栄光のそばに、そのご祝福に満たされて、お過ごしのことでしょう。
 今日は、特に天国におられる方々を覚えて、その方々と心を合わせて、主を誉めまつる礼拝を献げたいと願って居ります。
 もちろん、今日だけではありません。毎週の主日礼拝のみならず、毎朝の早天祈祷会、週日の祈祷会、またしばしば個人的に、特に会堂で祈りたいと願うそれぞれの方々が、会堂に詣でて祈っております。
 そうした方々の祈りがしばしば答えられて非常な恵みに浴することがあります。そうした時、先に召されて、今、天にある方々のお祈り添えを感じることが多いのです。
 今日は特に当教会の信徒一同、天にある聖徒の皆さんに感謝の言葉を差し上げるとともに、今後共、天にあって、この教会を愛し、御援祷くださり、信徒一人一人を守護天使として見守ってくださるようお願いいたします。
 父なる神様、救い主イエス様、聖霊様、この祈りを御前に献げます。アーメン。《く》
 (在天者祈念礼拝にあたって)


【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年四月四日
<受難週>
 この日より、受難週に入ります。輝かしい復活祭の日曜日(四月十一日)を目前にして、主キリスト様のご受難の日々をしのび、断食や克己的修行をこの週にする人が多かったのです。形式主義に流れる恐れはあるけれどもやはり良い習慣だったと思います。
 どうぞ、みなさんもタバコをやめるなり、酒をやめるなり、テレビの娯楽番組を見るのをやめて良書をひもとくなり、病床の友に手紙を書くなり、小さいわざでもよい、イエス様へのご恩がえしのつもりで試みてはいかがでしょう。
 特に、金曜日を祈りぶかく、慎んですごすことは意義ふかいことだと思います。

■一九七一年四月一一日
<主はよみがえられた!>
 毎年、復活節(イースター)ともなれば、口ぐせのように言う
ことですが、この国ではもうクリスマスは俗化してしまって、どうかするとお祭りさわぎのクリスマスに教会すらも妥協してしまって本当にイヤです。
 イースターは西洋では(特にラテン諸国では)俗化して鼻もちならぬ風俗になっているようですが、日本ではまだまだ純粋さを保っていまして幸いです。
 復活節とは、単に開祖の奇蹟的復活譚を回顧して、自慰的信仰生活の季節風をあおることではないのです。
 「主は実によみがえりて、我らの中にも現われ給えり」と叫ぶ日のことを言うのです。今日!

<勝利の生活を求めて(二)>
 祈祷の第二の要点は、聴従ということです。
 祈祷の第一要点は静聴ということだけれども、これは何も深山荒野に行って一人森閑として祈れなどと形だけのことを言っているのではない。
 最近、今橋淳先生のお母さんが緑内障で失明寸前に至ったとき、東京の今橋先生に電話をかけられた。電話機の向うで愛をもって叱り激励なさる息子の今橋先生の言葉の中に神の声をきいた。激痛と不安のどん底で神の声をきく。これも静聴です。体はあわてふためいていても、心のカラがわれているのです。
 それは息子の今橋先生の言葉の中に、真理を聞こうとするお母さんの意思がしっかりしているのと、今橋先生の「手術はしてはならぬ。活けるキリストを信じなさい」という言葉に全く従おうと決心されたからです。
 本当を言うと、神の声を聞くことと、全く従うということは全く一つのことでして、全く従うから聞けるのでもあるし、聞いたからこそ従えるのでもあります。
 かくて、今橋先生のお母さんの緑内障は全くいやされた由を、先生の個人証誌で拝読しました。このように、今も「我らの中に現われ給う」キリストこそ、実に復活のキリストであります。
 「主、きたりたまえ!」
 
■一九七一年四月一八日
<勝利の生活を求めて(三)>
 「神はじめに天地をつくりたまえり」これが聖書の一番はじめに出てくる言葉です。
 神は無より有を呼びだし給う創造者であります。その神は今も尚働き給う。天地自然造化の神として。また、我らの内によき業を為さしめんとして働きたもう内在の神として。
 「創造的精神」という言葉は、最近のはやり言葉です。しかしもともと、利己心、表現欲、征服欲、出世欲より触発された創造的発想法だの人格転換術だのというものは、サタンの入れ智恵でありまして、それによって生じるしばしの達成感・幸福感は果実のみのらぬ仇花にしかすぎません。
 本当の創造的精神は神にのみ由来します。神の創造霊が私どもの内に働き、それがはじけるように活躍するとき、「みよ、古きはすぎ去り、新しくなりたり」というような人生がおこるのです。(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
■一九七一年四月二五日
<愛が義を包んで>
 預言者ホセアは紀元前七百年代の人で北朝(当時ユダヤは南北朝の二国に分かれていた)に生まれた。
 残念ながら奥さんが多情な人で、生まれた子供も自分の子か人の子かわからぬ始末。あげくの果て三人の子供を家において若い男と逃亡してしまう。そういう荒廃した生活の終局はテレビでも見るような具合で、遂に男にだまされ、ドレイに売られ、他国にいって体を売る最低の惨状―――
 ユダヤの律法では、そういう女は有無を言わさず捕えて石打ちの刑で殺したっていいのです。それをホセアは金を払って買いもどしてきて、また妻とするのです。許し得ないものを愛し抜こうとするホセアの生涯。
 このホセアが出現するまでは、ユダヤの宗教は律法のきめつけのきびしい宗教でした。そこには、神の正義が高調されて神の愛が説かれませんでした。
 愛が義を包んで、正義の要求を受け入れつつ、悪と罪をゆるしていこうとする弁証法的な愛の働きは、ホセアの家庭的悲劇を通して教えられるのです。
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by hioka-wahaha | 2010-11-16 09:33 | 日岡だより
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