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No.461 キリストの信仰により 2010.11.7

キリストの信仰により

 ピリピ人への手紙、第3章9節を拝読しましょう。
 「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」。
 このお言葉の中で1行目から2行目にかけての短い句、「キリストを信じる信仰による義」というお言葉を、私の解釈ですが、原文から直訳的に訳しますと、「キリストの信仰による義」となります。
 「キリストの」の「の」は、原文は「所有格」です。ですから、「キリストの持っておられる義」ということになります。
 くどいですが、大切なところですので、ご注意して、読んでください。「自分の信仰ではなくてキリストが持っておられる信仰」というお言葉になります。
 本当の「信仰」はキリストが所有される信仰です。このキリストの信仰に私たち自身を埋没させれば、そこに私たちの信仰を発見できます。
 私たちの弱い小さい信仰にビクビクしないで、イエス様の信仰に私の信仰を預けて、大胆に信じて生きて行くのです。《く》


 
【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)

■一九七一年三月一四日
<花より愛でにし我が子よ!>
 これは明治以来、多くのクリスチャンに愛唱された讃美歌である。特に一九〇三年版においてはフォスターの名調に合わせて、いわゆるヤソぶしと冷笑(?)された特有のこぶしをふるわせて老人たちが歌った。四部合唱で器用に歌う教会音楽風の讃美歌とちがう、ああいうクリスチャン演歌調も今活かされてもいいのではないかと思う。一九三一年版の讃美歌では木岡英三郎の模範的伴奏曲がついて誰もうたわなくなってしまった。
 私は今、あたらしい日本人のうたう、心の讃美歌求めている。
 
■一九七一年三月二一日
<不惑の年>
 孔子は四十にして惑わずと言った。私は四十をすぎてから迷いを生じたように思う。二十三才の晩秋回心してより十数年、私は何の迷いもなくまっしぐらに私の人生を進んだ。
 私は今も私の回心をつゆだに疑っていない。あのとき私の胸裏におこった魂の革命は、パウロやアウグスチヌスやルターや内村鑑三におこった神の干渉波と全く同じである。
 しかし、人間は鼻持ちならぬペダンチックな野郎で、そういう体験にすぐ教理をくっつけ権威づけをやり、そしてその外側の装飾に固執する。
 その固執より離れようとする活動が四十代の私の惑いとなった。
 
<年配者よ!>
 年間で最も商売の忙しい時期でありまして、しばしば本職の「伝道」の方をおびやかされます。いろいろ不行届きのことが多いのですが、ごカンベンください。
 若い時の信仰は偏狭で馬車馬のようにセッカチで鼻息があらい。中年になると、世間に妥協して灰色の(白でも黒でもない)信仰生活に堕しているくせ、自分では最高の信仰のつもりで頑固に自分を守ってゆずらない。
 年とって、世間というものを十分知った年配で、もう一度青年のように求道生活にもどろうではないか。マホメットは四十すぎで回心して立教した。石田梅岩の霊的目ざめも中年以後である。年配者よ!若がえれ。
 
 
■一九七一年三月二八日
<復活のキリスト>
 ブルガリヤ地方では、牛乳を軒先につるして自然発生の乳酸菌をつくり、これを食べて世界一の長寿村を作っています。その乳酸菌が体内に入って他の有害菌を退治して健康を保つのです。
 キリストもまた復活して私どもの心の底に内住して、私どもの心に巣喰う肉欲・傲慢・悪を退治し、病気や小心をも追い出してくれます。
 キリストの復活が単なる昔話なら、何にもなりません。でもキリストの復活は過去一回きりの昔話ではなく、今も私どもの内におこり、脈々として生きるイノチであるのです。(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
 
 
■一九七一年四月四日
<勝利の日々を送る(一)>
 日々の生涯を勝利の人生としよう。勝利の人生とは何ぞ。人に勝つことではない。サタンに勝つことである。サタンに勝つには、勝利者イエスを見上げることである。
 「我すでに世に勝てり」こうイエスは言った。そのイエスの心を、我が内に迎えるとき、私は私を制することができるのである。
          *
 信仰生活の第一歩は「祈り」にある。祈りの模範の一人はサムエルである。
 「しもべ聞く。主よ語りたまえ」
 こう言って神の声をきくとき、サムエルの祈祷の第一課が始まった。
 祈りとは勝手気侭に神様におねがいすることではない。祈りとは無念無想とか称して半眠りになってただ坐していることではない。祈りとは、強烈に思念をこらして万事心のままに成就せしめるという心霊術ではない。祈ると何となく気分がすがすがしくて健康上大いによろしいという人がある、そんなことでもない。
 祈りとは、まず第一番に、神意は何か、神は何を語りたもうか、それを求めて心の耳をすますことを言う。騒々しく主よ主よ!とわめきたてて霊的気分をかきたてることを祈りとは言わない。「静まりて神の言を待て!」(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
by hioka-wahaha | 2010-11-09 09:20 | 日岡だより
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