No.460 死のからだ 2010.10.31

死のからだ

 ローマ人への手紙第7章、特にその後半は、使徒パウロによる痛烈な人間の肉性に対する忌憚なき攻撃であることは、少しでも聖書に慣れた方々はよく承知しておられることでしょう。こう、パウロは言うのです。
 「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
 わたしはなんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙第7章22節~24節)
 手厳しい言葉ですが、本当は己が罪の意識に苦しむパウロ自身の魂の真底からの嘆きの叫びです。死ぬにも死にきれない血を吐くような叫びです。
 私自身、福岡の刑務所の独房の中で苦しみ悶えたのがこれでした。自殺しようにも自殺する力もない、無力感のどん底で苦しむのです。それが死のからだと言うものです。《く》

 
 
【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)

■一九七一年二月二八日
<信仰の三つの型>
 信仰に次のような三つの型があるようだ。
 第一番は修業して真理の門を開く方である。自力の修行一本槍でやるわけではない。いつかは真理の方より働きかけてくる聖なる光により心眼を開かれるのであるが。
 第二番は信心ひとすじの人である。おのが罪と無力に絶望しきってただひたすら主の救にすがるタイプの信仰である。
 第三番は聖霊の濃密な干渉に人格が一変する、新しい聖なる血汐に体中の血液が入れかえられてしまった底の人である。
 どの型の信仰も正しいのだと思う。すべては主のご恩寵である!
 
<詩篇第八〇篇について>
 「ゆりの花のしらべにあわせて」うたわれた詩篇だという。何という、うましい素晴らしい詩篇であろう。
 先週の週報にも書いたとおり、ヘブルの詩は情感いっぱいの詩である。だから、ここにあるのは、歴史ではない、神学ではない。神にそむいて、苦しんで、人にさげすまれ、人にうばわれ、こらしめられて、そのドン底で神を求めて、その御顔の光に照らされた経験のある人でなければ、とうてい書くことのできない詩がここにある。我らの魂が、これらの詩篇に全く心の底より共鳴共震するときの素晴らしさ!
 
<無畏心>
 「あらゆる種類の恐怖を
 投げすてることによって
 あなたのエネルギーが充満する
 そしてエネルギーそれ自身が
 根本的な内的革命をもたらすから
 あなたはただ
 それにまかせていればいいのである」
    ――― クリシュナ・ムルティー ―――
 この詩句を畏友J君が送り届けてくれた。
 おのれを捨て、カラッポにして、無私の我を貫通して働きたもう神の御手に一切をゆだねよ……そのように言うは正しい。しかし、どうしておのれを捨て、おのれをカラッポ(虚)にするか。瞑想か、ヨガか、行か。
 いや、おのれを捨てるとは、案外手ぢかのこと。
「恐怖をすてる」ことである。
 右の詩句を式にすると次のようになろう。
心-恐怖=エネルギー→エネルギー×全托=自由

 かつて………
 旧師手島郁郎は言った。
「信仰とは神による無畏心である」と。
 手島先生については、いろいろ批判もあるが、キリスト教信仰にこういう男性的ストレイトな信心を発見したことはえらい。
 昔時、信仰とはかたくなまでの屈従心によって、文字通りにキリストのいましめに従おうとすることであった。この道すじは、時には聖フランシスのようなすぐれた聖者を生みだしたが、又、トルストイのような悲劇的人物をもつくりだすのである。忍耐と剛気の精神のない近代人の幣である。
 そこで宗教的改革者→バルトの系譜にみられるようなキリスト論的受容という屈折したみことばの受入れがはじまる。それは福音主義的信奉と言えるが、しかしイエスや使徒たちの信仰とは水準のちがいが感じられる。
 今こそ、新しい、そして復古的な福音信奉が必要である。キリストの血の力がダイレクトにのぞんで来て、あらゆる恐怖心が霧散して、私は一個の枯骨になりきり、そして内的エネルギーに復活する、そういう福音の力が必要である。その時、かのシベリアの一寒村に死んでいったトルストイの悲劇は二度とおこらないであろう。(一九七一、二、一六)(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
 
■一九七一年三月七日
<終末論>
 終末をごく短時日に予期していたパウロや初代教会の人々の思わくはすっかりはずれて、ローマ体制は延々と続く。教会はローマ帝国に勝ったと言えるが、逆にまたローマ体制にのみこまれて、それに妥協してしまったとも言える。そのあらわれこそローマン・カトリックのゆるぎなき姿である。
 当然すぐにも到来すべき終末の遅延に即して、却って信者たちの終末観は純化する。自分たちが生活の上でアンノンとくらして文化を享受できるその時代の中に、終末を感じ取るのである。そして、その時代に反逆するとき、まことに終末的人生がやってくる。これが実践的終末論である。
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by hioka-wahaha | 2010-11-02 12:08 | 日岡だより
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