No.458 あがないの真理 2010.10.17

あがないの真理 

 先日、10月10日に開かれた「一泊聖会」の初日、夜の聖会だったかと覚えているが、何かのきっかけで、「あがない」という言葉が私の注意を引いた。私は、
「そうです、イエス様は私たちのために、あがないとなってくださった」
 と、話し始めた。
「イエス様のあがないとは、イエス様が私たちのために身代わりとなって、私たちの罪の代償としての死をご自身に受けとめて下さり、私たちは死ぬべき命を助かって、イエス様から身代わりの命を頂いているということです」
 こう語り始めながら、その時、今、私が持っているこの体はイエス様の体で、既に私の体というものは無いのだ、と感じたのである。
 私はその話を続けながら、今しゃべっている私の体、この頭、この口、この手足、この心臓、この肺。すべてイエス様のものなんだ。もう既に私の体は無くなっている。私の体は地獄の火の中に葬られてしまっているんだ。ありがたい、ありがたい、この私の新しいこの体よ、この体はイエス様だ。と私は心にむせび泣いた。その私に気がついた。
 
 こうして私は、「あがないの信仰」というものに改めて、気がついたのである。これまでの私の「あがないの信仰」は、キリストによる「義認の信仰」を持たせて頂いて、私の罪は無視されて、私は義人と認められたぞよ、という信仰であった。
 それはそれで、良い。長い間の私の信仰である。決して誤った信仰ではない。私はこの信仰を22歳の晩秋、昭和19年11月23日の夕刻、福岡の刑務所の独房の中で頂いた。
 その日以来、66年、私のその信仰は、硬く私の霊の底に定着している。その私の信仰は微動もしない。これは私の信仰ではない。キリストの所有する信仰なのだと、私は受けとめている。
 しかし、今回、私の「あがないの信仰」が格上げされたのである。これまでの信仰はこうである。
「私はつまらん駄目な人間だけれど、イエス様のあがないの血潮により、義人として認められたんだよ、ああ感謝です。」
 しかし、イエス様のあがないの救いをはっきり信じたならば、私はイエス様の身代わりの血潮により、すっかり新しい、清い、力ある、クリスチャンとして、イエス様の体に換えられているのである。私の古い、弱い、偽善者としてのクギミヤ・ヨシトではない。古いヨシトの体は死んだ。今や、私はイエス様の聖なる体に造り換えられつつある。力ある使徒になりつつある。
 これが、あがないである。私はあがなわれて、新しい人になっているのだ。「信仰による義認」を越えて、「聖霊による人間改造」の第一歩を踏んでいるのだ。《く》

<信徒一泊セミナー> 

 先週礼拝後、秋の信徒一泊セミナー(聖会)が開催された。九電の別府保養所に泊まり、集会には離れを使わせていただく。とても由緒ある建物らしい。私達は照波園と呼び習わしているが、正式にはどこにもその名は見あたらないので、その呼び名が正しいかどうか定かではない。
 まわりに建物がなく、敷地内の他の部屋とも文字通り離れているため、一般の施設であるにもかかわらず、大声で祈っても歌っても大丈夫なところがとても嬉しい。早天祈祷会では海から昇る朝日が御言葉をとりつぐ牧師の背後を赤くそめ、まさに「後光」状態。座敷のなか、各自好きな位置にばらばらと陣取ってメッセージに耳を傾けるのは旅の途中の宿屋や野原でイエス様を囲むお弟子たちのような気分である。
 さて、このセミナー、月曜が休みとなる連休を使って、春と秋の二回開催されるのがこの近年のわが教会の恒例行事となっているが、今回は格段に満たされた聖会となった。
 何かをあらたに教えられた、というより、各自がリラックスし解放された中で、それぞれに目標や何らかのめざす道を心にしめされた聖会ではなかったかと思う。参加者の証しを待ちたいと思う。
 次回の春は、教会堂での実施となる予定だ。景色のよい場所でゆったりとして行うのも良いが、祈りのこめられた会堂にはまた別の恵みがある。また宿泊が無理な方でも参加できるのも利点であろう。多くの参加者を期待したい。(S)
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by hioka-wahaha | 2010-10-19 11:06 | 日岡だより
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