No.452 主よ、来たりませ! 2010.9.5

主よ、来たりませ!

 三位一体論はキリスト教神学の中で難しい論議だと思います。私はもともと神学校なんかには、てんで行っていない素人牧師ですから、こうした論議にはついて行けません。
 ですけれど、素人だからこそ大胆に言ってみる度胸もあります。三位一体論は人間自身を顧みて見ればよく分かります。
 人間は神に似せて造られた存在ですから、人間自身をよく見ると、その似せられている箇所がよく分かるのです。
 人間自身の中心である「私自身」は、人間の中のどの部分にありますか、調べて見ようにも、どこを調べて良いか分かりません。「私自身」はどこにも、見つかりません。
 同じように神様ご自身は、どこにいるのか、宇宙全体どこを捜したらよいのか見当がつきません。総宇宙、もろもろの宇宙と言い替えましょうか。これは神様の体のようなものですが。神の造られた天と地を指してます。
 似た姿ですが、「私自身」も、この宇宙に似ています。「私自身」が、この私の中の何処に居るのか、それこそ全く見当がつきません。私は行方不明です。
 しかし、「私自身」が私の中に存在することは明らかです。私を離れて、私の外に私が居るとは思えません。
 
 神様が天地を造られた時、どこにも材料は無かったはずです。神様は無から天地を創造されたのです。
 しかし、ただ一つの例外、人間だけは土から塵(ちり)を取りあげて造られたとある。塵(ちり)というのも、最も小さい物という意味であろうか。何も、つまらないもの、打ち捨てられたゴミやつまらないものということではなかろうと思う。
 
 創世記を読むと、人間以外の生物はすべて大地の自動生産力によって生み出されたように見える。
 しかし人間だけは前述のように、神様の御手によって土の塵を材料にして造られたのである。
 そして造られた人間は、神の息を吹き込まれ、生きたものになったと聖書にある。
 息は聖書では霊であり、イノチである。
 息はイノチの表現であり、証明ではあるが、そのものではない。
 赤い血にしても然かり。イノチそのものは見えないのである。それはイノチの表現であり、証明ではあるが、イノチは見えない。
 イノチはもともと神の息であった。息は神の分身である。そして人間の子孫に長々と引き継がれ、永続して今日に至っている。
 しかし、人間の始祖アダムは罪を犯した。そこで、罪は人類の子孫に遺伝され、人類は罪の保管庫になってしまった。
 この人類を罪より救うのはイエス様以外にはない。イエス様はキリストである。
 僕は大胆に言うが、キリストとは神が人の世に生まれた、そのお姿である。神様がそのまま人間世界にご意志をもって降臨された、それが人間の世界では処女マリアの体にイエス様が宿ったということになる。
 イエス様が神様の独り子という表現は誤解を生みやすい。神様が女性のようにおなかにイエス様を宿してこの地球に産み落された? そんなことではない。
 直言すれば、神様ご自身がこの地球にお生まれになったということである。
 天におられる父なる神は霊なるご存在であって、姿はない。その姿こそはイエス様に見ることが出来る。父なる神様は霊的ご本尊(良い言葉ではないが)として、昔もイエス様の当時も、現在も天に居られる。
 今はイエス様は天に帰って居られる。父なる神様の側に並んで居られる。そんな風に考えるのは迷信である。
 父なる神様は霊なる存在で、形としては見えないお方である。その父なる神様が地上に降臨なさると、イエス・キリストとして私たちには見える。だからこそ、イエス様は神様ご自身である。(ここは私の極言であるが、ご理解乞う)。
 イエス様は言われた、「父と私は一つである」と。もし、私が今、天国に行ったら、そこにイエス様が居られて、私をウェルカムして下さると思う。
 「イエス様、神様は?」と問うたら、ご自分をさして言われるだろう。
 「ここに居られるじゃないか」
 私の信仰によれば、父なる神様は、全宇宙(この天文学的宇宙ではない)、ご自身の創造されたこの総宇宙を見下ろされ、かつ共存して、御祝福くださる。
 その息吹のもとに私たち凡てのクリスチャンは健康で、楽しい、戦闘的な神の国の兵士として、この地上に生きている。そして来たるべき「主の日」を待ち望んでいるのである。ハレルヤ! アーメン!
 私たちには、この叫びしか無い。
 「マラナタ!(主よ、来たりませ!)」《く》

 
(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(5)

 ああ、あのころは私も苦しかったな。当時私は、二十才くらいの青年、大きな店舗を守り、株の配当や何かで生活は至極アンノン気楽太平、静かで平和で、私の生涯における最も楽しかるべき時代であったが、実は私の一生において最も苦しいさびしい時代であった。この悲しさは酒も女も金もなぐさめる事はできない。里見弴ではないが、私は「墨汁一斗を飲み込んだような気持で」野良犬のように精神の寒夜をほっつきまわる自分を省みて声もなく泣いた。
 はじめの方で書いたが、聖パウロの言葉「私はイエス・キリストを信じる信仰、この信仰によって私は救われた」―――この言葉が私の心に決断を迫った。こういう時、返事はキェルケゴール風に、「あれかこれか」しかない。人間はこういう時、たしかな返事をする事を恐れてその返答を明日にのばしていく。(つづく)
   (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-09-07 15:06 | 日岡だより
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