No.449 8月15日! 2010.8.15

8月15日!

 今回の本紙の発行日はちょうど8月15日です。「ちょうど」と言うのは、先週の本欄で書きました敗戦記念日のことです。「敗戦」という字は好きではありませんが、しかし素直に「敗戦」を認めることは良いことですね。相撲でも、将棋でも、はっきり自分の敗北を認めることは、次回の再起と勝利を期待させるすばらしい姿勢です。
 日本は、それまで日清、日露、第一次世界大戦参加、上海事変、満州事変と連戦連勝だったというわけで、負け知らずで威張って来ました。少なくとも日本国民はそのように政府から聞かされて、心が驕っていたのです。
 私はまだ、その頃は少年期、当時の少年雑誌に心を奪われていました。当時の少年雑誌と言えば、講談社の「少年倶楽部」です。毎月、心を躍らせて発売日を待ったものです。何よりもあの頃の講談社の社長には小国民(当時子どもたちをそう呼んだ)に対する愛情と教育感覚が溢れていました。
 「少年倶楽部」に連載した山中峰太郎の「敵中横断三百里」など、その頃の少年で読まなかった子は居なかったでしょう。(因みに山中峰太郎は陸軍士官学校出身の、そしてクリスチャンだったという変わり者ですが、この人の軍隊物は人気がありました。体も精神も軍人向きでない男が軍隊に入って、当時は男子国民の義務でしたからね、そこで苦労するユーモラスな物語など。この人の信仰告白自叙伝は読ませるものがありましたが、私は失って今、持っていません、古本を捜しています。)
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 さて、文章を8月15日に戻します。この日は、新聞などでは「終戦」と呼んでいます。私はこれには反対です。冒頭に書いたように「敗戦」です。
 あの日のことを思い出します。戦争は末期になっていました、ということは我々国民はだれも知りません。新聞、雑誌、ラジオは完全に政府に統制されています。(書き添えますと、当時にはまだテレビはありません。早いニュースはラジオだけが頼りです。空襲警報などラジオにかじりついたものです)。
 どんづまりの昭和20年8月になっても、「なあに、アメリカ軍が来たら、本土決戦だよ。日本に上陸させて、そこでコテンパーに負かしてやるんやわ」、などとうそぶいていました。
 だから、8月15日、「今日は重大放送がある」と、ラジオが言うと、国民は、殆ど「いよいよ、本土決戦か。」と、心を決めたものです。そこへ正午だったか、「天皇様のお言葉です」とアナウンサーの声、「ええっ?」と思っているうちに、聞き馴れないヘンなアクセントの日本語ですよ。我々は初めて天皇の日本語を聞いた訳です。
 「ははア、皇室人というものは、こういう話しぶりをするものか」と感心しているうちに、「どうも可怪しい、何を天皇さん、しゃべっているのか、分からん……」。
 しばらくして、「アッ」と思った。どうも、日本は負けたと言ってるらしい。しばらくして、叫びというか慟哭というか。そして「怒り」の声も起りました。
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 その時、私は大分駅前の日本通運という会社に勤めていて、その会社の中で皆でラジオを聞いたのですが、「なんと言うことか」という声が上がりました。「敗戦宣言」への批判です。しかし、それは一人の男の声だけだった。あとはみんな押し黙っていた。声など出るはずはない。日本が負けるなんて、考えてみたことも無かった。前代未聞のショックです。
 これは今の日本人には思いも寄らない不思議な当時の日本敗北にたいする日本人一般の対応でしょうね。「なんということを言う。日本は負けたなんて日本人の言うことじゃないよ。死んでも言えんぞな」。
 天皇さんを悪くいう人はいなかった、総理大臣以下、何をしているのか。天皇に負け戦宣言をさせておいて、自分らはこっそり黙っている。今まで我々国民が苦労して戦時下を支えて来たのは何の為か、怒りが込みあげてきて、総勢で「コンチクショウ」という声も起った。
 しかし、次の一瞬、一同呆然として腰を抜かした感じです。それまで「一億一心、勝ち抜くんだ」と言っていた気合が風船玉のように抜けてしまって、仕事も何もする気が無くなってしまう。特に私の働いていたのは、当時としては国鉄に結びついた国策的な会社ですから、いったんお国が負けたなどという状態になると、仕事をする気も、まったく無くなってしまうのです。
 社員一同、がっくりして仕事に手がつきません。みんな、やる気をなくして、会社の外に出ました。いつもなら無断早退ということですが、何も考えないまま、庶務に届けもせず、家に帰ってしまったのです。
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 ともあれ、「戦争反対」の意図をはっきりと持っていた私は、戦争を止めるという政府の宣言には賛成でした。しかし、祖国が遂に戦いに敗れたという事実には、悄然としました。自分の「非戦論者」としての立場はとにかく、自分の国が戦いに敗れたことについては厳しい観念と、今後への不安と、自分自身、如何にこの国を支え護って行かねばならないかという「身の丈の合わないような」不相応な使命感ですが、心は緊張し震えました。
 当時の私の気持ちは、幕末の頃の吉田松陰などの尊皇論者に似ています。この国を支えるのは自分たちだという使命感です。しかし、私には「自分たち」という同志がいませんでした。
 あの大東亜戦争中、私の一番参ったのは孤独感です。正直、あの時代、日本の戦争体制に疑問を抱く人は一人もいませんでした。少なくとも私のまわりには、私の非戦論を理解し、私を応援してくれる人は一人も居ませんでした。教会の牧師だって、当時の国策に反対する20歳の若増など迷惑至極、近寄ってくれるなという、私への態度でした。
 しかし、私は恐れませんでした。孤独ですが、キェルケゴールではないが、「勇士は独り立つ時、強し」です。私にとっては、ただ一人の肉親である母の存在だけが心配でしたが、これも神様に委ねました。
 その頃の私の作った和歌に(短歌ではないですね)、「義を知りてこの世にあれば我れも亦、一小預言者とならざるを得ず」というのがあります。私は現代日本のエレミヤなんだと、自分に言い聞かせていました。そのような私に近づいて、共感する人も、励ましてくれる人もいませんでした。
 私が刑務所にはいってからは、かつて父と信仰の友であった牧師さんがたも、家に一人残る母に慰めに来てくれる人はいませんでした。こういう時の政府官権の怖さは今の北朝鮮などと同じでしょう。当時のクリスチャンや牧師先生がたを非難する気は毛頭ありません。
 クリスチャンなんて者はアメリカの手先だ、死んじまったほうが良いんだ、というようなその頃の世間の目に抗して生きることは容易でありません。お米や繊維品などが配給制度になると、クリスチャン家庭への割り当てが忘れたふりをして他に廻されるなどということも起ります。こうして飢餓感というものが、一時的でなく半年も1年も続くと、本当にお腹と背中がくっつくような気持ちになるものです。
 こういう時にも、「いつも喜んでいなさい」というようなみ言葉に立って生きる力はどこから出ますか。信仰です。イエス様を心の中心に頂き、イエス様が私の霊力を振るい立たせてくださる信仰、私は前年の11月23日の夕刻、その信仰を神様から頂いていました。
 信仰とは自分の心で決心することではありません。それが端緒かもしれません。しかし、その信仰が心の中心に滲み入ってくると、イエス・キリスト様が私の中心に棲んで下さっていることが分かってきます。極端な場合は、本当にイエス様が私の魂のどん底に突き込んでくることを全身が震えあがるほどに体験することがあります。
 そうして「歓喜」が起るのです。宗教体験としては日本の日蓮さんが「歓喜の中の大歓喜」と告白していますが、さあ、クリスチャンの皆さん、日蓮の真似ではない。日蓮さん以上の「歓喜の中の大歓喜」を頂こうではあませんか。どなたから頂けますか。私たちの主、イエス・キリスト様に外なりません。アーメン、ハレルヤ! 《く》
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by hioka-wahaha | 2010-08-17 16:07 | 日岡だより
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