No.448 日本国民精神の作興を祈る 2010.8.8

日本国民精神の作興を祈る

 来週の主日は8月15日で、敗戦記念日です。終戦ではない。大日本国の屈辱的敗戦を祈念する日です、私は呼びかけているつもりなんです。この小さい「日岡だより」では全日本人に周知させるには全く力量不足で恥ずかしくて残念ですが。
 ところで、この文章を書いた翌日、キリスト新聞第一頁の論壇(社説)を読もうとしたら、その大見出しになんと「65回目の敗戦記念日」とチャンと書いてあった。その執筆者である湊(東京女子大前学長)先生に向かって遠く頭を下げた。「ご免なさい。先生がとっくに敗戦と使ってありましたね」と独り言したことです。
 さて、次の問題語は「平和」です。今、「平和、平和」との掛け声は地球上を覆い尽くしている感じですが、なぜそんなに「平和、平和」と叫ばねばならないのでしょうか。今すでに、世界は「平和」じゃありませんか。
 勿論、平和と言ってもトルストイさんなどが言ったかも知れない理想的な永遠の世界平和を唱えているわけではありません。
 地球上あちこちに国境争いや種族間の問題は無いことはありません。しかし、通信、交通、運送、これらが国際間に一応無事に運用されている以上、これを平和と言わずして何を平和と称しましょうか。今は世界は「平和」だと言ってみても、誤りではありません。
 現代、大国間同士が戦争すれば、多分お互いに核爆弾の叩きあいになりましょう。そうしたら、各国の企業や市民の財力で作り上げた、各生産機能も一斉に崩壊され、市民の住宅や全財産、彼らの贅沢な生活堪能物資もすべてを含めて、一挙に吹っ飛んでしまうでしょう。
 そんな馬鹿な戦争をおっ始める国があったとしても、打って返すように原子爆弾で打ち返され、地球上あらゆる国々に戦火の嵐が吹きまくることになるでしょう。
 そうなると、政治に目覚めた人民諸君の非難の声が全世界から上がり、各国政府はあわてて平和宣言でもしますかな。
 以上、幼稚な紙芝居風に描いて見ましたが、要するにこの発達した贅沢三昧の社会を擁する国々は、もう戦争なんかコリゴリ、一切するはずがないんだ、と簡単に書いてみたわけです。
 戦争など、そんな愚かなことをする政治家は世界から無くなりますよ。要するに先々のことはともかく、現代の世界を見てください。かつて地球が経験したことの無かった平和が今、全世界にもたらされています。過去の地球の歴史にこんなに平和が全地球を覆いつくしたという時代があったでしょうか。
 我々の棲むこの地球はこれまで、こんな平和な自分を見たことは、歴史上一回も無かったのです。ですけれど、こんなにも潤沢無類な平和が続く時、かつての地中海世界を握ってローマの平和を造りあげたローマ人たちが、自らの果てし無い享楽に身を投じて折角の高度な文明社会を荒塵に帰したように、目を覆うばかりの悲惨な文明がこの地球を襲う時が来るかもしれません。これは又、人類の英知を信じかねる一小牧師の悲観的見通しですが、こんなことを言っては、多くの人から叱られそうですが、
 聖書は言います。「人々が平和だ、無事だ」と言っているその矢先に、突如として滅びが彼らを襲ってくる」(第一テサロニケ5:3)。念のため、もう一度、書きます。使徒パウロが書いた書簡の一部ですが、言わく「人々が平和だ、無事だ」と言っているその矢先に、突如として滅びが彼らを襲ってくる」(第一テサロニケ5:3)
 パウロが言っているのは、主の日のことです。地球最後の日です。かつて内村鑑三先生や矢内原忠雄先生が、預言者のごとく叫ばれた、「日本は滅びる、世界は滅びる」との、その言葉のように、時が近づいていると言うのはあまりに悲観的予測でしょうか。しかし日本は今、危機に面しています。
 その現象の一端は国民精神の道徳的崩壊現象です。日本では大正12年に「国民精神作興詔書」という法律が発布されたことがありますが、今日、一牧師として「国民精神作興」の声を高く上げたいのです。
 民族の道徳的廃頽こそ、現代の世界の推移を示す上で最大の恐怖です。それが世界を滅ぼすのです。国としても切羽つまって国民道徳刷新の訴えを広く国民に示すべき時が、もうそこに来ているのではないかと思います。いかがでしょうか。《く》


(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

いのちの初夜(2)

      *   *   *
 一八世紀の英国に帰って、私達は一人の人物の「信仰歴」を見よう。
 彼の名はジョン・ウェスレー、彼は大学の神学科を卒業してすでに教会の司祭であり、また母校の教理学の教師!であった。
 彼はある時、伝道の為にアメリカに行こうとして大西洋上にあった時、暴風が彼らの船を襲う。彼は顔色をなくして恐れ戦いている時、同乗しているドイツのモラビアン派の人々は牧師も信徒も子どもたちも平和で勇敢で沈着で愛と喜びにみちているのを見た時、彼らの信仰と彼の信仰の質的相違をまざまざと思いしらされたのである。
 ウェスレーは立派な神の子になろうとしてなれなかった。平時にはそのように見せかけていたかもしれなかったが、死がかいま見える非常の時にはそんな見せかけ信仰はいっぺんに化けの皮がはげてしまった。しかるに、あのモラビアン派の人々はどうだ?
 ウェスレーは彼らの指導者から聞いた、その時の胸をえぐるような、しかも彼がなんと答えていいか判らない当惑させられた言葉の一つ。
 「兄弟よ!あなたの心の中に神の証(アシュアランス)を持っていますか」
 ウェスレーはそれまでそんな事を考えてみもしなかったのである。
            (つづく)
 (※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-08-10 16:18 | 日岡だより
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