日本と世界を救い 私と全人類を救う 主の愛を賛美
わが愛する母国が救われなければ、私の救われた意味がありません。 この人類の生きる世界が救われなければ、この日本が救われる意味がありません。 こんなことを申し上げるのは、神様に対して不謹慎でしょうか。そうかもしれませんが、主よ、お赦しください。 私どもが永遠の世界に帰る時、それはあなたの限りなき愛の然らしめる処です。 あなたに賛美と感謝を献げる外はなく、 またそこに主の御十字架の燦然たる輝きを認めるほかはないのです。 私どもは感泣せざるを得ません。主よ、世界は人類の罪で滅びんばかりですが、 その惨状から私たちを救い給う、十字架と復活の恵みを感謝します。《く》 (以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より) 目ざめ(6) 前述の岡部教授に、週刊朝日のインタビュアーが「その魂の素が宇宙にできる前はどうなっていたのですか」と問うたら、「それは時間の始めは何かというような問いと同じで、人間には分からないことなのです。分からないことは分からないままにして、分かることだけの範囲内で真実を探求する、それが科学です」というようなことを答えている。 これは科学者の率直な、そして恐ろしいまでのあざやかな科学者の限界告白である。俗流合理主義者、科学万能主義者なども憤死せよ!という処ではないか。 時間の永遠性、空間の広がりの無限性は、今のところ人間の意識では考えることが不可能な問題である。今は考えても分からないが、時代が進歩すればそのうち分かってくるだろうというような相対的な不可知ではなくて、人間というものが持っている本質上、到底分かるはずのない絶対的不可触的問題であると思う。 渺々たる大海に浮く一寸法師のお椀のように、我らの世界は「永遠、無限、死」というような言葉から、梢の間にミンダナオのタサデー族が月影や星影をチラリと見たかもしれないように、不可蝕、不可知な大海の波頭をかいま見つつあるその大海に浮くヒョッコリヒョウタン島みたいなものではないか。その中で、平和を説き、科学を発達させ、戦争をする、それが我々人間である。 * 前述の岡部教授の説明で興味をひくのは、物質やエネルギーの不滅の原理から推論して、「人間を形成する非物質的要因は、宇宙の間で不滅である。死んでいる間は不活性となって、どこかにひそんでいる」というくだりである。空気のへったゴムまりの凹みは、一方をふくらますと、凹みが移って、結局どこかにその凹みは転移している。そのように、エネルギーや物質は不滅であると科学者は言う。 それと同じ理窟で人間の意識に表れてくる「記憶、感情、知性」というようなものも、本来この宇宙に潜在しているのであろうか。永遠不滅、遍在盈満の「心」が時にふれ折に乗じ結露して、今この地球に人間の内に生じているのであろうか。 試論して言えば、一例として「愛」は非天文学的な意味における超絶的な宇宙の中心的情動であろう。これはチッポケな人間の心の片すみにカビのようにはえてくる性的欲情や母性的利己心のことではないのである。宇宙の中心的愛が人間の心に結露して人間の愛情となる。キリスト教的意味における愛とは、そのような愛である。私どもは、人間の愛をとおして天地の愛の一端をかいま見るのである。 我らの世界の外なる不可知、不可解の大海のごとき世界は、人間の知性や感覚では捉えがたい。この世界に目ざめることを、私は回心とも呼びたい。 それは、心霊学的異常経験をさすのではない。某氏が霊媒実験で大活躍したところで、それは犬の帰家本能や鼠が大火事を予知して家を逃げ出すのと同じで、神秘界の秘密の一つを見せてくれたのではあるが、それは人間の中心的心情に宇宙の高貴なる魂が映ったわけではない。人間の生物的本能に、可視化しやすい神秘界の一片がひらめいたにすぎない。「回心」とは霊的宇宙構造における高次の心理映像が人間がいまだ普遍的に開発し得てない脳細胞において感覚されることである。それを目ざめと称する。 ともかく、目ざめ=回心は高貴なる自覚である。それは、その人自身を「聖潔なる感覚、自由意識、鋭い倫理感、隣人愛、万有への親密感」を与えるのだ。 * 私はこの原稿の最後を宮崎から北上するバスの中で書いている。初秋の夕暮は早く、宗太郎峠のあたりを通る。このあたり、昔、南天棒がそのあだ名の由来の南天の木を乞い得たという宇目のあたりである。宇目の歌げんかに触発されたわけでもあるまいが、今車内で歌声がおこった。従業員諸君と共に連れだっての観光旅行の終幕も近いのである。 どれ、社長の私もみんなに混じって歌わねばなるまい。さて、「歌はリバイバルにしようかな、フォークにしようかな」と、やっとこのペンを止めて目をあげた。 車窓に星のまばたきがゆらいだ。 (「目ざめ」の項終了) (※以上は1971年の文章です。) 【おしらせ】 ◎小冊子「神は愛なり」発行・・・内容は昨年日岡だよりで連載しました「主の御名を呼ぼう」です。釘宮トミ牧師夫人の召天記念に、釘宮牧師の書き下ろしのあとがきをつけて小冊子化しました。すでに記念として親しい方々には一冊ずつお配りしましたが、実は、印刷が少々粗くなってしまった分が残っています。ご希望の方に無料でお送りしますのでお申し出ください。多部数の場合、送料のみご負担ください。
by hioka-wahaha
| 2010-07-27 13:29
| 日岡だより
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