No.444 主の福音を明確にしよう 2010.7.11

主の福音を明確にしよう

 主の福音を明確にしよう。単純に強力に、イエス・キリストの福音を宣言しよう。神が人となり給うて、我らの世界に宿り給うた。私たちと同じ肉体、同じ心情、同じ弱さ、そして同じ意志力をも持ち給うて、この地上に生き、かつ死に給うたのである。
 この真理を絶えず語り、時に応じて声高に宣言し、世人の魂を目がけて忠告しよう。
 私たちは、この福音に自ら耳を傾け、この言葉に忠実に従い、世に厳しく語りかける必要がある。そして世の人々の魂を開きたいのである。これこそ私たちの生涯をかけての尊い使命である。
 主は単に死に給うただけでなく、死のどん底にまで降りて下り、陰府を体験したもうた上で、其処から復活し給うたのである。
 再び言う、主は人となり給いし神ご自身である。この方のほかに神はない。私たちの神と呼ぶお方は、天地の創造者、かつその維持者、私たちクリスチャンの魂に住み給うお方、私たちの罪のあがない主、病いある者の癒し主、弱き心の慰め主、励まし主、イエス様なのである。
 「私に従って来なさい」とペテロに語り給うたお方は、私にも又同じように語りかけて下さるであろう。私たちは自分でイエス様を発見し、自分の力でイエス様に従うことは出来ない。
 しかし、イエス様ご自身が私に直接語りかけ、私を呼び給う故に、私は首を上げ、「ハイ」と返事して、イエス様の身許に駈け寄ることができる。この「私に従って来なさい」とのお言葉こそ、まさしく「福音」である。《く》
 
 
凡ての歌はラブソングである?
 
 新聞に、ある歌のグループのリーダーが、「凡ての歌はラブソングである」と堂々と語っているのを見て、なるほどと思った。
 何も異性を恋する「愛の歌」だけではない。凡ての歌は一切、「愛の歌」であろう。
 讃美歌は神を愛し、イエス様を愛する歌である。「荒城の月」は日本の古城の風景を愛する歌である。すべての文学作品や芸術作品にも、その作者の愛がこもっているとは思うが、特に歌を歌うとき、若い時の流行歌などを思い出して歌う時、そこに言い知れない愛の感情がある。
 友人たちや恋人たちだけではない。そこに同時に思い出す状況に合わせて色んな人たちや、周辺のもろもろの物事や、風景がある。そこにこもっている愛がある。人々の愛、自然環境の愛、神様の愛、そうした尊い愛に守られて生きてきた私たちの歴史がある。
 昔、東京ラプソディーという流行歌があった。今でも思い出すのは「神田は思い出の町、今もこの胸にニコライの鐘が鳴る」という下りだ。東京に出て、神田のあたりを行く時、この歌を思い出す。
 流行歌はともかく、クリスチャンとして肝腎の讃美歌はどうです。讃美歌ではないけれど、私には、讃美歌の曲で歌ってくれた父が作った私のための子守歌がある。この歌は父の歌声と共に私の脳裏に滲(し)みこんでいる。
 
 1、可愛いい義人よ  おいしいお乳を
   泣かずに眠らで  静かにお飲み
  (折り返し)
    夜も日も神様  共にいまして
    あなたを愛して 守り給うぞ
       (讃美歌359番の曲で)
 
2番も、3番の歌詞もあるのだが、それは省くが、この折り返しの「夜も日も神様共にいまして、あなたを愛して守り給うぞ」という箇所は、私には忘れられない、私の愛唱句である。
 さて、ここで触れたいのは、こういう時の「唄う」という行為の神秘さである。
 先に引用した「すべての歌はラブソングである」という言葉の一部を変更したい。
 こうである、「すべての唄はラブソングである」と。「歌」という言葉を「唄」に替えてあることに注意してほしい。
 如何なる歌も、私たちが声に出して唄うとき、その心は愛に満たされているということだ。どんな乱暴な唄でも、憎しみの歌でさえ、それを思い出して口で歌うとき、その唄には「愛」が満ちている、という事実である。これは私の思い込み過ぎであろうか。
 皆さんも一つ、実際どんな歌でも良いから、今思い出して唄って見て下さい。唄うあなたの心に一種の「愛情」が湧いているのに気がつかれるでしょう。
 これは私だけのことでしょうか、皆さんに試してほしいのです。私の思いこみに過ぎないのかも知れませんが、私はこれは確かなことだと信じているんですよ。(歌唱心理学の発見?呵々)《く》


(1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

目ざめ(4)

(3)昭和三十年頃だったろうか。
ある夜おそく、中年の夫婦が東京に行くとて、これがお別れです、祈ってくださいと言う。当時の、私の流儀で大声でそばにいる何ものもはねちらして進軍する荒武者のような祈祷であった。三十分ほどしてその客は帰り、私は眠りにつき、さてその翌日である。
私は通常どおり朝起き、当時ろう学校に勤めていたから歩いて通勤し、学校にて授業をし、学級費を計算し、職員会議をし、そしてフト気づいた。私は早朝よりその時まで瞬時も忘れず、神様と会話していたことを。
私はそれまで、人間の心は一時に一つの事しか考えられぬものと思っていた。ところが少なくともその時の私と神との対話だけは違う。ソロバンをおいている時も、会議で議論している時も、子供に発声を教えている時も、私の精神活動は並行して、常に瞬時も絶えることなく、神に向って語りかけ、神を賛美し、神の声をきいているのである。
パウロは「汝らたえず祈れ」と言った。私はそれまで、絶えず祈るとは朝昼晩毎日祈るとか、連日よく祈るとかいう熱心な祈りの修飾語だと思っていた。ところが、違うのだ。本当にたえず祈るということがあるのだ。この思いもかけず与えられた御恩寵に私は驚嘆した。
この御恩寵の体験は二ヶ年ほど続いた。

             (つづく)
(※以上は1971年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-07-13 10:24 | 日岡だより
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