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No.441 手島郁郎先生を憶う 2010.6.20

手島郁郎先生を憶う

 私、釘宮義人の地上における恩師はお二人おられます。お一人は手島郁郎先生。もうお一人は西田天香先生です。手島先生にはカリスマ的なキリスト教の信仰の、その賜物の些かを小分けして頂きました。天香先生には、この地上における下座生活の実践面を教えていただきました。そのいずれも私の受け取れる受容量が小さ過ぎて、両先生の持って居られた賜物に比して足りません。お名前を辱めてしまいます。
 今日は特に手島先生のことについて申し述べさせて頂きます。今日はちょうど、大分市内、当教会の近くの場所で、先生の独立伝道の記録映画が上映されることになっています。本日の礼拝が終わったら、私もその映画会に行って、懐かしい手島恩師の面影にお会いしたいと思っています。
 手島先生の特徴は少なくとも二つです。
 第一は、キリストの福音が、その力量性において非常に顕著であることの実証です。つまり目に見えるばかりの手近にありありと奇蹟的信仰の力を見せてくれることです。
 その特徴の第二は、先生の明るい積極的な性格です。いわゆる世間で知られている温和で控えめで優しいクリスチャンというのではなく、押し付けがましいほどの大胆無類のクリスチャンのニュー・タイプです。
 私は手島先生から破門された旧弟子ですが、有り難く思っています。破門しないわけには行かぬ旧弟子であると、認めて下さるわけですから嬉しいです。出て行くなら勝手に出て行け。お前など出て行っても一向に困らないという程度の弟子ではないと認めて下さった訳ですから嬉しいのです。
 先生の力量たっぷりの講義と奇蹟力、これは一度でもその場に列席しなければわかりません。既に先生は天に召されましたから、その現場を見る訳には行きませんが、今回の先生のドキュメント映画を拝見すれな、些かでもその凄さに驚かされるとおもいます。今日の映画会が楽しみです。
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 さて、ちょっと先生について触れざるを得ない、私の先生についての批判面に触れておきたいと思います。先生が感情的にお弟子さんたちをポンポン怒ったとか、お酒を飲みなさったとか、そういうことは、先生のご愛嬌面であって、魅力でもありました。素直に自分を表現なさる点、いわゆるお上品な牧師さんがたと違って、多くの人が先生に惚れこんだ一面でありました。
 実は、批判面というのは、信仰についての大事な問題点です。キリスト教の救いの教理に関する面で、一つの急所があります。それは「義認論」です。キリスト信仰の中心は人間の持って生まれたままの「罪」をイエス様の十字架によって許していただくということです。
 それは私ども人間の側の「信仰のみ」によって与えられるキリスト神様の恵みであると言われます。それは、私たちの信仰によって、キリストが持っておられる「義」を与えられる。私たちはこのキリストの義により、私たちも神の前に義人と認められる、というのです。これを「義認の信仰」と言います。宗教改革でマルティン・ルターが勝ち取った「義認の信仰」です。
 イエス様の十字架の代償の御業を信じるだけで、私たちの生まれながらの罪あるがままに義人として認めて頂ける、この信仰を頂ける「神秘」を頂戴するのです。
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 イエス・キリストを信じる信仰だけで、神様の前に義人と認められるという、この義認の信仰が、手島先生の目からみると、単なる知性的言葉の入れ替えで、罪が義に替えられる。この義認信仰の早業に手島先生は疑問を抱くようです。これは知性による手品のようなものではないか。これは信仰とは認められない、というのが手島先生の批判でありました。先生にとっては義認の信仰はインチキに見えたのだと思います。
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 先生の信仰を私どもの立場から、お察ししてみますと、先生はカリスマ的な力量的信仰を真っ先に掴んだ恵まれたお方だったに違いないと思います。
 先生に分からないのは、信仰の一向に進まず、弱い信仰の人の信仰です。世の波風につまずき、悩み苦しみ、自分の不信仰を嘆きつつ、なおもイエス様にしがみつく時、自らが弱いままで、信仰がしっかりしないままで、ただイエス様の憐れみにしがみつき、イエス様の愛だけを頼りにして信仰を立てつづける。こういう信仰の持ち方です。
 自分の信仰の弱さに徹して自分の信仰をしっかり持つ、こういう信仰もあるのですね。「我れ、弱き時にこそ強し」、という信仰ですね。
 かように「信仰が弱いからこそ、助けてください、この弱い信仰のまま、私を守り立てて、あなたの愛の故に私を立てあげてください」という、だから絶対不倒の「だるま信仰」ですね、いかがでしょう。《く》

 
(以下は1971年12月発行「我ら兄弟」第3号より)

目ざめ
    -私のいくたびかの回心の経験と特に最近の山岸会体験について-

          一

 私が、人生に迷いを生じたり、疑問を感じたりしたとき、自分の心の中や、その歴史をさぐってみる。すると、どうしても疑えないという最後の一点にたどりつく。それは私の二十二才の晩秋の一日、あの回心の一事である。
 私の回心というのは、「フト思いついた」というようなちょっとしたことで、諸聖人、大先輩諸賢の神秘的大回心劇にくらべると、申し訳ないほど貧弱な経験であるけれど、私にしてみれば何ものにも替えがたい大事な経験で、いわば私の精神生活の原点なのである。
 今年の冬、東京、祖師谷教会にいって原田美実先生にお会いしてお話をうかがったとき、ルターの義認信仰について
 「あれはすごいもんだ。あのルターの信仰の真髄をつかめば、全世界をひっくりかえすことだってできるんだ。」
 と力をこめて言われた。今、先生はルターや無教会流の福音信仰を抜けられて、川合信水翁直伝のキリスト心宗の信仰に生きておられる。そういうお方がルターの信仰をあのように評価されるというのは、先生の信仰の原点にルター的回心があるのだなと、涙ぐむような感動で私はそれを確認したのである。(つづく)
(※以上は1971年の文章です。)
 
by hioka-wahaha | 2010-06-22 13:46 | 日岡だより
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