No.435 百倍の集中力で祈ろう! 2010.5.9

百倍の集中力で祈ろう!
         ―ある信徒への手紙―

 ハレルヤ!
 お手紙、拝見。今の状況では、小生も貴方の教会の問題へは近寄れませんね。ともかく、しばらく傍観。離れて、集中して祈ることです。そうです。百倍の集中力で祈ってください。御教会の問題はしばらく牧師先生と他のメンバーに任せて、あなたは唯、祈ることに専念なさい。
 あなたは今の職務だけに専念しなさい。祈りなさい。百倍の集中力で祈ってください。
 他の奉仕活動はそれぞれのスタッフにお任せしなさい。万一、牧師先生に他の分野を依頼されたら、またそれに専念しなさい。
 その他については、それぞれのスタッフにお任せして、あなたは唯、祈ることです。祈りが最大の奉仕。そしてあなたの成長のためにも祈りが最高の訓練です。
 しまいには、あなたの生活全部が祈りに満たされ、祈りに支えられるようになります。家にあっても、職場で働いている時にも、教会にいる時にも、いかなる時にも祈りがあなたにくっついて行く。そこへ心を集中する。
 「そんなことはできません」、と言わないで、必ず出来ると、宣言してください。
 
 これは「常に祈る」ということへの勧誘です。「絶えず祈りなさい」という第一テサロニケ5:17のパウロの勧めは、決して不可能のことではない。求めればだれでも出来ることなのだと、私は敢えて断言します。
 信仰の最高峰を求めましょう。これは決して傲慢な求めではありません。御言葉への従順な態度なのです。御言葉への従順は、あらゆる疑い、恐れ、逡巡を打ち消します。
 決して信仰の英雄になれと言うのではありません。信仰の僕(しもべ)となれというのです。へりくだって従いさえすれば、いつの間に高嶺への登山道にまぎれこんでいますよ。
 愚かな者になりきって、ただ一途に御言にくっついて行くのです。シャローム! 《く》
 ※(数年前、ある方に送った手紙の写しです。)
 

(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
【日記】8(1969年)

 午後、鶴崎に行ってみたらK姉が単車にはねられて入院しているとのこと。おどろいて見舞う。心配したほどの大ケガではないらしいが、全身傷だらけで痛々しい。もっとも、この人らしく、気丈で朗らかである。私などだったら、もっときつそうにウンウンうなっていることだろう。
 神様が、せかせか動きまわる彼女を掴まえ、無理矢理に「忙中閑」あらしめたといえる、暴力的な神の愛と思って、ベッドにおとなしくすることだ。最善の意味はまた本人が悟らせてもらえよう。一日も早き平癒と、平安を按手祈祷して辞去する。おりよく妻も同道していたので友達同士話し合えてよかったろうと思う。
 
8月31日(日)晴
 聖日である。
 会するものは、わずか八人か九人であるけれども、この「小さき群」をかえりみ愛し給う主のご恩寵を感謝する。
 不思議なもので、主のご臨在の感ぜぬ集会を営まされると、何千人集まっても、心むなしく騒々しく倦怠をおぼえるものである。わずか二、三人でも主がそこに来てくださると、主の栄光、聖さ、喜び、一致、魂の高揚があって、人数の少ないことなどの思いわずらいは頭の中からひとかけらもなくなるほどふきとんでしまうものだ。
 集会は、司会は吉田兄いつものとおり力づよい司会ぶり、私は「主の大能に抱かれて強かれ」との主題で説教した。
 説教は十二時半にもならねば終わらぬほどの大長広舌であったけれども、決して冗長ではなかったと信じる。開会のさい、讃美歌奉唱のとき、歌声がすでに涙声になるほどの聖霊の感動がみなぎり、感謝すべき礼拝であった。
 集会後、私はタイプ原稿の相談があって、長女孝枝としばらくの間話す。主がこの愛する娘をこれほどに霊的に訓育し成長せしめ給いしことに驚き、また感謝する。
 子供の育て方、その教育については私は失敗者と言える。一時、地元の中学校のPTA会長までさせられたが、冷汗三斗の思いであった。されど、真の子どもの育て主、また教育の主を知り、これに委ねることを知るものは幸いである。
 
9月1日(月)曇
 若い時に家出して、熱海の一流旅館に泊まったことがある。大ローマ風呂に目を見はり喫茶室で海岸を眺め、さて食事を大いに期待していたら、ご飯と梅干しだけ、女中さんいわく
 「今日は震災記念日でございますので例年このようなお食事でご辛抱ねがっております。次の食事でお埋め合わせしてご馳走申し上げますから―――」
 と。九月一日になると、震災のことなど少しも経験のない九州の僕も、決まってこれを思い出す。
 地震―――これを単なる地表のゴタゴタと地球物理学的に了解することは易しい。また科学的にそれは正しい。しかし、それを神よりの警告ときくには現代では宗教家でも素直ではない。
 「このともがら黙さば、石叫ぶべし。」
 とイエスは言われた。
 「獅子吼ゆ、誰かおそれざらんや
  エホバ語りたもう、誰か預言せざらんや」
 とアモスは言う。
 「内に主の熱気がこもって火の如く
  預言せずんば我わざわいなり。」
 とエレミヤは言う。
 地震は、大地が主のエネルギーを内にはらんで醜悪の世に警告を発し、戒め、かつ終末を予告する身震いであるのだ。
×
 今日は終日静か。ただし郵便物どっさり。N市の一老兄、心霊治療のためフィリピン、ブラジルに行くと言う。そのときのぼくの反応―――ぼくもついて行きたいなという好奇心や(ぼくはこういう事が好きですからね)、心霊術のいやらしさへの逃げ腰や、ぼくの周囲にある貧しい人々を思い出しての金のむだづかいのアホらしさや、金田先生の教会の合田さんの「イエスさまバンザイ」を思い出して、平凡な主婦の平凡な信仰によるいやしのすばらしさ等々、ぼくの内面的反応の複雑多岐に呆れる。ぼくは信仰に入らなかったらよほどオッチョコチョイできざ、でしゃばり、品よく言えば万事につけてのジレッタント、軽々しい人間になっていたことであろう。(つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
 
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-05-11 09:18 | 日岡だより
<< No.436 この人以外に私を... No.434 妻の面影(3) ... >>