No.434 妻の面影(3) 2010.5.2

妻の面影(3)

 妻のトミさんが天に召されて70日になる。早いものだと思わされる。
 「奥様が亡くなられて、お淋しいでしょう」というお慰めの言葉をよく頂戴する。「有り難う」と挨拶をお返ししているが、本当は「いやいやあ、とんでもない」と言いたいのである。
 私の本心は決して淋しくはない。嬉しいのである。いつも妻は私と一緒に居てくれるからである。
 妻が長い間、臥せていたベッドのあった脇の壁に今は妻の写真をかけてある。その写真に向かった私はしばしば声をかける。
 「トミさん。天国での生活はどうね。天国の様子を教えてよ」
 と語りかける。
           *
 正直に言って、私は牧師でありながら、天国の様子を信徒諸君に明瞭に語り得ない。せっかく、天国に行ったトミさんに、そこはそれ、地上界では夫婦の仲であった縁浅からぬ僕のために天国の様子を教えてよ、というわけである。
 まだ、そういう恩恵に接し得ていないが、そのうちトミさんから天国の様子をこっそり教えてもらいたい。そんなことを思う、今日この頃です。
 さて、先の言葉に帰りますが、私は一向淋しくない。天に手を伸ばせば、すぐにトミさんが私の手を取ってくれるような気がするのです。
 声をかければ、すぐ答えてくれそうな気がするからです。その日も、それほど遠くはないと信じている今日この頃です。《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
【日記】7(1969年)

 恥ずかしくてもいいから、そう言ってください。ある人にとってはそんなことを言うのは死ぬほど辛いことなのだと私は知っています。それほどの辛い思いをしても入会申込みする人に対し、私は泣いて感謝せずにいられましょうか。
 ちょっと話がもどるけれど、さきに書いた「面接」の件ですが、やはり当時の私には、何もかも一新しようとする気概を持っていた。そこで昔の武道の師匠が入門希望者を威儀を正して神前に呼び、
 「入門を許す」
 と礼をつくして師弟の固めをしたような、そういうサムライかたぎが出ていたように思う。はっきり、これよりは師弟として、血をすすりあって、求道の道を共に進もうとする盟約めいた雰囲気を望んでいたようです。そういう気分が「面接の上・・・・・・」という文字に出ています。
 このことは、今日S君夫妻にも言い忘れてしまったが、あとで思い出す「規約」作文当時の心境だ。これまでの例でもとかく、私が人を困らせ、誤解させるのは、このたぐいのサムライかたぎの故のことが多い。今後私とつきあう人はご用心ください。
 とまれ、今夜もS君夫妻に会えて嬉しかった。祈って別れる。
 
8月30日(土)晴
 一日中、讃美歌ではないが「この世のつとめいとせわしく」走り回らされる。ひとつとして渋滞を感じない。課長さんにも、給仕さんにも、エレベーターの中の見も知らぬ人々にも、実にインギン有礼(慇懃無礼ではない)愛をもって接し得られることに、我ながらおどろく。
 聖霊に押し出されて(満たされてとは言わないが)働く生活を、未経験の時はずいぶん高度な神秘的な神人合一的な、いわば超人的心事と想像していたが、そうではないのだ。
 「福音」とはもっとやさしい誰にでも生起しうるごく平凡な生活なのである。だからこそ「福音」という。
 午後、井上医師に会い、来週の心電図検査の日取りを相談する。そのさい、
 「毎日規則正しい生活をしてください。一定のリズムにのって、ごく自然に振り子が動くように毎日の生活をするんですよ。
 昔、兵隊が強かったのはそれです。起床ラッパから就床ラッパまで一定の規律基準で動作して、眠っていても歩けるようになってしまうんです。これは昔の軍隊のよかったところですね。」
 と言われる。生活のリズムということを、いつも人に言ってきた自分が、逆の立場になって医師からそう言われると、また格別の味わいがある。天体の運行や、四季の移り変わりの「節度、自在、壮大、―――その律動的生」を我らは我がものとせねばならぬ。
 神による「節度と律動と気迫」のある人生は、まさしく天与のものであって、ただの半日でも経験すると、こういう人生もあるものかと我ながら感動する。
 それは、前述の医師の言葉にそって考えてみても、その面からだけでも理想的健康管理の生活であると思う。この秘儀は、人間の側からすれば、祈ることのみがこの秘庫を開く鍵であるように思う。これはまさに、魂の内側から湧きいずる力づよい精神力である。
 最近流行の、自己催眠、自己暗示、自己開発、自己訓練等々、決して悪いとはいわぬが、あれは底の浅い、外からの誘発的激情法にほかならぬ。聖霊による創造的精神改造とは似て非なる、全く次元の異なる精神偽装法と言わねばならぬ。
 最近ああいう本がたくさん出ているし、私も愛読し、また人にもすすめることもある(最近の良書は「幸福への挑戦」(マクスウェル・マルツ著産業行動研究所発行)です。その他、古くからある「信念の魔術」、「精神力」、ノーマン・ピールの「積極的生活の力」等々)。しかし、ああいう本や指導法にはしばしば欠陥と陥穽がある。それは現代風の競争社会や自己満足のための麻薬であって、さらに深いところに人格的に致命的な傷痕をのこすのです。
 たとえば、女性たちがチャーム・スクールに入校したと仮定してみよう。教師は彼女を鏡の前に立たせ、何度も何度も「私には魅力がある、私には魅力がある、全世界の男が私に拝跪するであろうほどに、私には魅力がある」と自己暗示に熱中させる。たしかに、その効果はあがり、彼女は数ヶ月ののちには、別に整形手術したわけでもなく、目と鼻を入れ替えたわけでもないのに、魅力ある美人となって、チャーム・スクールを出て来ます。
 しかし、それが何というのでしょう。その無意味さにいつか気がつくことでしょう。そして、あまりにも自己中心的な自己への意識集中、おのれの魂の深部にまでメスを入れていじりまわし、美的観念、価値観念を固定させ、おのれ自身を破壊させ、遂には芯の芯底までおのれ自身を偽装してしまって、とりかえしのつかない人造人間になっていることに気づくのです。最近流行の「モーレツ社員特訓」を、まじめにやっていたら、そういう半キチガイがやたらとできるでしょう。
        ×    
                 (つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-05-04 09:48 | 日岡だより
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