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No.433 妻の面影(2) 2010.4.25

妻の面影(2)

 最愛の妻、釘宮トミが天に召されて約2ヶ月になります。行年86歳でした。最近は長命者も多いので、それほど長命だったとも言えないでしょうが、まずまず長い人生を終えました。
 私に取っては勿体ない妻でしたし、情緒的にもピッタリ仲の良い妻でしたから、長い病床生活で夫たる小生、もう覚悟もついておりそうなものですのに、さっぱりです、いや、だからこそでしょうか。がっかりです。
 結婚したのは昭和27年、当時私は大分市大手町に住んでいましたが、新婚旅行に出かけるなど余裕のある私たちではありませんでした。別府のラクテンチに行って、ちょっとお茶を濁しただけです。
 彼女の父親は営林署の署長で、転勤が多かったので、九州各地を移住したそうです。女学校は宮崎の高鍋高女、そして今で言えば準短大でしょうか、岩田高女の特別学級に行ったそうです。ともかく父母が早く死んで、弟妹の世話に追われ、やっと弟たちも高校を終えて、責任を解かれたという感じの時で、ちょうどその頃、私の伝道する鶴崎の西町の集会に集うようになったのです。
 しばらくして私との結婚に結ばれることになります。これは全く、神様の恩寵、私が30歳、妻が28歳でした。
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 私が神様の「鶴崎に行け」との御声を聞いて、鶴崎伝道に乗り出したのは昭和24年10月9日(多分)、近くの鶴崎小学校の運動会での子供たちの歓声が上っている日でした。集会場は不思議に導かれた林正貴兄弟のお宅で始まったのです。
 集会を正式に始めることになると、すぐに林さんと仲の良かった松村写真館の奥さんが来てくれましたし、又その連れで現・きなみスクールショップの木南さんのお母さんの木南真佐さん、それから後々神学校に行くことになる大石美栄子さん、また当時その鶴崎の仮偶に住んでいた私の旧知の萱島勝兄、等々が集まってくれるのです。
 そこへ松村さんの奨めでやって来たのが、後の我が妻になるトミさん、ということになります。後に幕屋に行ってしまう田部さんは家は大在の方で、ちょっと大分とは反対方向に離れていますが、そこからはるばるやって来ました。
 斯くして、日曜礼拝をすることが出来るようになって、私は毎週、国鉄(現JR)で大分駅から鶴崎駅まで通っていました。礼拝が終わって、大分市に帰る私を、トミさんがよく鶴崎駅まで送ってくれたものです。
 そのうちに、トミさんは大分市の私の自宅に時々訪ねてきていろいろ信仰上の、また伝道上の相談を持って来たものです。又、まだ私は大分県立聾学校に務めていましたので、一度か二度、学校までやってきて私の聾話教育の現場を見にきたこともありました。
 (私はわずか3、4年の経験でしたが、聾話教育の準ベテランになっていました。私はもともと吃音がひどく、だからその吃音の矯正手順として、話す時の口や舌や呼吸の使い方のコツがよく分かっていたのです。その経験が聾話教育にも応用が効く面があったのですね。聾児教育では、普通の学校の国語、数学なども教えますが、それと同時に聾児たちに「目で人が話している口の言葉を見分け、生まれつき語ったことも無い日本語を口で語れるように」指導する必要があったのです。これは難しい技術ですが、私は割合に上手にやれました。私に伝道の天職が無かったならば、この聾話教育は確かに魅力的職業でしたね。)
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 この鶴崎集会は次第に人数が増えて、十数名になりました。後に大分市に合併される小さな町ですから、十数名といえば、よく集まったほうです。
 その後、この鶴崎の伝道を撤退し、大分市のビルの一角を借りて、新開拓を始めることになります。鶴崎集会は、現大分教会の基礎だったのです。決して無駄な伝道ではありませんでした。特に、木南さん、わが妻トミさん、中野高代さん等、人材が生まれる恵みの町であったわけです。《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
【日記】6(1969年)

 預言はすたれ、律法は止み、規約も会則も消え失せる時が来る。その時、尚あるものは、聖霊にある交わりと愛だけではないか。ねェ、A君!
 二人して社長室で祈って別れる。祈りつつ故もなく、涙ぐむ。何だかだと、波風をおこしては、我らは集わせ、そして一致して主の前にひれ伏して祈らしめる主のおはからいを感謝する。
 
8月29日(金)
 朝祷にて、「今日もまた、神の創造の一日である、汝の主の創造のみわざに今日も従え」と訓えられる。
 会社の始業寸前まで、福島のK君に手紙を書く。これで第四信、原稿用紙でちょうど五十枚。よく書いたものだが、憑かれたようにして書いた。主がこれを善用したまわんことを。「それ、我らの福音の汝らに至りしは、言にのみ由らず、能力と聖霊と大いなる確信とに由れり(テサロニケ一書一の五)。」しかり、手紙の言葉と人間の熱心さとではどうにもならぬ。主の能力と聖霊の働きたまわんことを。
          ×
 夜、S君夫妻来訪くださる。昨日のA姉と同様、今度の「規約」の堅苦しさに、たまげたらしい。自在人クギミヤが急に戒律僧か、修道会の監督になったように思えたのであろう。特に「会員は牧師が面接の上、その入会の諾否を決定する」というようなことを書いてあるので(私は今これを記憶によって書いているので正確には覚えない)、ともかく先生の真意もたしかめたいし、審査も受けねばならぬかもしれぬと訪ねて来られるのであろう。
 「ホイ、これはしまった、あれはキット書きすぎですよ、あなた方は入会申込みを送ってくれさえすればよい、書類審査で、みんな入会を認めますよ」とあわてたことだが、ぼくのする事はたいがいこんなことだ。だから、どうぞ片言隻句で責めたてんでください、と思う。勝手な願いかな。
 会費千円というのも論議を呼ぶでしょうね。苦しい家計の人にとって、千円はきついでしょう。きつい人はきついと言ってください。何も、会費を集め金もうけするために集会しているんだと私のことを思っている人はないでしょう。金が無ければ金が無いでよい。「先生、会費は納めきれませんけれど、会員にはしてください」と言ってください。それが恥ずかしくて言えないというのは、その恥ずかしい思いをする程の値打ちを私の集会に認めていないということなのです。(つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
by hioka-wahaha | 2010-04-27 11:18 | 日岡だより
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