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No.430 私のイースター体験 2010.4.4

私のイースター体験

 先週も書きましたが、私の伯父・釘宮徳太郎は伝道熱心で、生涯死ぬまで、主筆の雑誌を書き続けました。雑誌と言っても、今で言えばB5版の四頁立て、一枚新聞型の雑誌です。
 最初の雑誌「日々の糧」を出した頃は、伯父は大分市の公設市場の場長でして、伯父としては珍しく大分市の公務員だったわけです。公設市場の場長事務室で原稿作りから校正、発送をするのに「日々の糧」とは打ってつけの題名でした。
 公設市場に出店している小売店の店主を場長室に集めて、経営講義をするのですが、実は「神の愛をもってお客さんをもてなせ」式の名講義です。事実、伯父は商売の実践に強かったし、しかも信仰をもって商売をする秘訣を知っていたし、論理性も兼ねて備えていました。後に大分商工会議所の専務も務めたくらいですから。
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 伯父の雑誌のタイトルはそのうちに「日々の糧」から「十字架の光」と変わります。
 「日々の糧」、それは「み言葉」です。「聖書」です。そして、聖書によって、読む者の心が開かれるのです。
 最初は聖書の中の人生訓やイエス様の御生涯の美わしさに心を打たれますが、そのうちにその人の心に聖書の言葉が鋭い槍のように突き通してきます。ついには、「ああ、我れ悩める者なるかな、この死の体より我を救わんものは誰ぞ」と悲痛な声を上げざるを得なくなります。
 十字架の言葉が刃のごとく、人の魂に刺しこんでくる時、人は根底から「死」を体験します。人間の「知情意」の凡てが「死」のどん底に突き落される時、全くの絶望です。
 その「絶望」をこそ、イエス様は待って居られたのでしょうか。そうに違いないと思います。そこまで来なければ、人の魂は主イエス様の救いを求めないのです。その魂にこそ、光が差し込むのです。それが「十字架の光」です。
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 キリストの十字架の死に合わされて、と言うのは十字架上のイエス様にくっつけられてイエス様と一緒に死ぬということです。事実、ローマ時代のもっとも酷い死刑は十字架の死刑囚に結びつけて死んでいる死刑囚の腐敗菌に侵されて、その死刑囚と一緒に死んで行く、それが当時の最も酷い死刑だったと言われています。
 イエス様の十字架の死に私たちの魂が合わされる時、私たちの罪の魂が霊的に死んでしまうという事が起こるのです。これが私たちが十字架においてイエス様と一緒になると言うことです。イエス様と一緒に十字架につけられると表現しましょうか。
 主観的にはイエス様の死が、私の魂にズデーンと入り込んで来て、私は全く死んだという自覚が起こります。そうして、私の体験では、福岡の刑務所の独房で、全く絶望で死んだようになっていた、その3日目、イエス様の復活の命が私の魂に侵入して来たのです。
 イエス様は十字架で死んで、墓に葬られ、その3日目に墓から復活されました。私も勿体無いことに同じように3日目に主が私の魂にズデーンと入り込んでくださって、主の復活を主と共通体験させて頂いたわけです。
 これが私の昭和19年11月23日の回心です。これが私のイースター体験です。今日はイースター主日ですので、私のイースター体験を証しさせて頂きました。主に感謝、感謝、感謝! です。
 そして、最後の伯父の伝道雑誌の題名も、「復活」でありました。今日は教会に、この伯父の「復活」誌の残部を持ってきました。みなさん、見本に持ってお帰りください。《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
【日記】3(1969年)

 昔の白人宣教師のように、「あわれなる未開国の土人のたましいを救ってください。彼らには医者もなく、学校もなく、着物もなく、裸足で貧しい食物にさえ飢え、偶像を拝み、占い師に迷っています。あのあわれなニグロや黄色人種をお救いください」とは祈れない。あの貧者をあわれみ無学ものを見くだし、文明と信仰を同一視して宣教活動に狂奔したところに19世紀以降の白人宣教師の誤りがある。
 彼ら宣教師の熱情と真摯さと信仰をしのぶ時、それを言うは辛いが、しかしそれがたとえ小さな思い違いであろうと、受ける側の傷は大きいのだ。福音伝道の宣教師の活動が知らずして植民政策の一環を担うにいたるという悲劇はそこから生じた。
 白人も(その文明圏に仲間入りした我ら日本人も)、あわれである。医者も薬品も学校も通信も交通もビルも芸術も娯楽も、一切が豊か。その享受に狂奔し、そのサービス過剰に疲労し、そして我らの文明の前途にかすかに絶望と恐怖を覚えつつも、人に押されるからと、自分もやむなく前の人を押し込んでベルトコンベアに乗り、どこへ行くともしれぬ(それは多分文明の果て、人類の終末ではなかろうか)一蓮托生の社会軌道を走っている。彼らの信じる偶像は金であり、地位であり、数字であり、見栄であり、「現在の快楽」そのものである。このあわれなる白色文明よ、これこそかつての暗黒大陸の黒人たちの哀れさに泣いたリビングストンやシュバイツアー以上に泣かねばならぬ、我ら自身の状況ではないか。
 かく思って、私はネパール人のためにも、エスキモーのためにも、「おかわいそうに」と、その文明的低さ、医療と教育と貧窮さを魂の低劣さと思いあやまり、伝道精神じみた祈りで祈るのではない。我らは同朋なのだ。地球一族なのだ。ただひたすらなる兄弟の愛なのだ。
 ネパールには、既に岩村師も行き、今度は伊藤兄も医療活動に行くと言う。神の愛の代行者として、妻を栄養失調にし、子どもを日本の教育境遇より切り離して連れて行く、その愛に泣け。
 人一人をクリスチャンとして得、地の果てにまで改宗者を得ようとして行くパリサイ宣教師は、もう全世界がごめんなのだ。それよりも必要なのは、キリストの愛の宣明である、血の愛の代行である、兄弟としての抱擁である。親が子のために祈るような、愛の祷告である。
 今朝、私はすべての人を想い、そむきてゆきし人、去りゆきし人、性格的に愛しにくい人、この人だけはゴメンという人を想い、彼らすべてを真情をもって愛し祈った。その時、神は、私に愛を与えたもう、私の内に聖なる愛を創造したもう。
 「神は愛である」このみことばは、実に我らの内に肉体化し、血液化するかの如く真実である。かくて、この愛は遂には我が胸にあふれ、全世界の民、ヒマラヤのふもと、南海の果て、アマゾンの原始林の民にまで及んだのである。(つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
by hioka-wahaha | 2010-04-06 16:20 | 日岡だより
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