No.428 腹から流れ出る生ける水とは(下) 2010.3.21

腹から流れ出る生ける水とは(下)

 先週に続きます。もう一度、ヨハネによる福音書第7章37~39を開きましょう。
 「……イエスは立って、叫んで言われた」。なんと言われたか。「わたしを信じる者は、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
 生ける水とは何か。それは聖霊様です。「イエスを信じる人々が受ける御霊」です。
 この腹はもちろん肉体的な腹ではない。人間の奥深い所に隠された深い心、魂、霊と呼ばれる深層意識です。そこから「生ける水」が湧き出てくると言うのです。
           *
 有り難いことです。聖霊様は神様から直接頂けるのですが、その頂ける場所は私たち人の心、その奥深い所だと言われます。決して簡単ではない。浅い表面意識にではないが、しかし、私ども人間の心に直接下ってくださる聖霊様、この聖霊様をお迎えできる喜びをなんと感謝したらよいでしょう。
 まず悔い改めてイエス様による罪の赦しを受ける。これは「義認の信仰」です。その信仰の基礎の上に、イエス様による「聖別」の恵みを受けましょう。聖別のみでなく「聖化」の確信を得ましょう。
 聖化とは自分で自分を聖めることではありません。イエス様の御手に委ねて、イエス様の聖なるご人格と一体とされることです。この聖化された「私」から、生ける水が溢れ流れ出るのですよ。ハレルヤ! 《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
われを仰ぎのぞめ、さらば救われん8
                   (1969年8月24日礼拝説教)

 私は今度この機会に小さな雑誌を作ろうと思います。小さな雑誌です。定形封筒に入れたいので小さな形にします。そこで題を考えた。はじめ「イエスの弟子小さき群」とするつもりでした。
 ところが、昨夜祈っていてどうも「小さき群」というのは良くないと気づいた。イエスは或る所で「汝ら恐るな、小さき群よ、汝らに御国を賜うことは天の父の御心である」という御言を残された。私は「小さき群」という言葉はもともと好きです。だから、「小さき群」と決めたかった。しかし、今のイエスの御言をよくよく拝して深く考えさせられた。
 御国を賜うことは父の御心であるという。御国とは何か、千よろずの天使が集う天の聖会であります。無数の天使の祝会だとヘブル書に書いてあります。この天使の大いなる群なのです。ですから、決して小さい群でないのです。小さき群というのは、小さき群よ恐るな、お前達のこの小さき群は目には小さいようだけれども、お前達の属する御国は大いなる軍勢、天使の集会なんだよ、おまえたちはこの大軍団の一千分隊なんだよ、ということであるわけです。
 ですから、「小さき群」とは書くまい、我々は本当は「大いなる群」なのだと昨夜悟らされたのであります。そこで「大いなる群」と題名を決めてみると、今までのような悲しげでない、勇気凛々、勇気百倍して、私の晩年の第一歩を印すべき個人雑誌が始まるんだと嬉しいのです。
 私達の目に見えるところは小さい。先にプリントに書いたように、例えば、時には除名しますよとか、キンシン命じますよとか偉そうに書いてありますけれども、あれはこの大分福音集会と称して目に見える団体で、私が一応責任者としてとるところの仮の規定です。
 しかしながら、目に見えないイエス・キリストの弟子という「兄弟団」はこれは宇宙的な厖大なる大いなる群なのであります。私達はイエスの弟子である。そして兄弟である。この兄弟団には何の規約もない。主イエス・キリストの弟子兄弟団という名前、それ自身が規約であります。主イエス・キリストの弟子である、と言う者は、当然お互いに兄弟だ―――その霊的な結びを持っている大いなる不可視的なエクレシヤ、それ自身がこの規約であります。
 この大いなる全宇宙に満ちわたる神様の力はこの地球上だけでないかもしれない、銀河系を飛び出してオリオン星座からアンドロメダ大星雲、あるいはそのかなたまでに居り、手が三本足が五本ナメクジ怪物のような知的生物がいるといえども、そういうすべての生物をひっくるめて神は我々の王である、キリストは我々の主であるという、そういう大いなるキリストの弟子兄弟団の一員であるとして、私達自身を今日はおぼえたい、また、この日を記念したいと思うのであります。(終わり)   (第一稿は吉田一行兄の筆記による)
 
【日記】 (1969年)
8月23日(土)晴
 神よ、私ほどあなたに愛されたものはいないのです。然るに、私の魂は不従順にして、あなたにそむき、怠け、あなたの仕事に対し手をつかねてサボっていました。私のフィールドには(伝道の場にも、家庭にも、事業・交際の面にも)雑草は生え、いばらはしげり、花はしぼみ、果実は落ち、野狐がちょうりょうする始末でした。
 かくて私は、あなたの前に泣きむせんで、あらたに再献身を誓う時、あなたは更に私をもたげてベッドに投げすて、
 「汝は心臓病だよ、再起不能!」
 とサタンに言わしめます。されど主よ、汝に召され、万事は(善きも悪しきも)最善のこととかわります。
 あたかも、昨日、旧「大分集会」解散の挨拶と、新「大分集会」の規約・信条等を送りました。これらはすべて、僅かの時間に推敲もなく書かれた私の拙文であります。言及すべくして句たらざる処、言うべからざるして駄文を草せしところ、「信条」などと大上段ふりかざして書きつらねてはみても、多くの神学者先輩諸氏より非難囂々たるは必然の小文でありましょう。
 しかし、この文章は西洋の法律学者が書く如き理路整然たる宣言文ではないのであります。日本の古武士が最前線に飛び出て「やあやあ、我こそは……」と一番乗りの気勢を上げて、自軍の戦闘の由来と必勝の信念を敵味方に宣明する、そういう息詰まる際の、用意も考えもなく腹の底からほとばしり出る雄叫びなのであります。
 あの文章の字面を穿鑿して、いろいろ批判読みされては困る。その内にあるもの、私を通して、主が言わんとしたもうた処、それが諸兄姉の心にそそぎこまれるように。
        *
 本日、頭を坊主刈りにする。17日の日曜日、旧「召団」解散の宣言の日より心に思い定めていたことである。決意をあらたにするという程のことで、別にさして他意はない。(つづく)
 (※以上は1969年の文章です。)
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by hioka-wahaha | 2010-03-23 12:05 | 日岡だより
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