No.427 腹から流れ出る生ける水とは 2010.3.14

腹から流れ出る生ける水とは

 聖書のヨハネによる福音書第7章37~39を開きましょう。
 「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。」
 ここで「生ける水」とは聖霊のことをさします。私に言わせれば「聖霊様」です。私は聖霊とは勿体無くて、呼び捨てには出来ません。そして、大げさかもしれませんが、しばしば御聖霊様とも呼びます。御聖霊様は生きた神様、独立した個性的な神様です。
 さて、この生きた神様、聖霊様は信じる者の腹から流れ出る、とはどういうことでしょう。
 この腹は、もちろん肉体的な腹では無さそうです、言語的には、そうした一般的腹、腹部や胃や、腸もさすこともありますが、もっと内面的に「あの人は腹ができている」。「一つこれは腹に収めてくれませんか」。などと使う腹のことでしょうか。
 私の持っているギリシャ語辞典では「人間の隠された奥深い場所、つまり心のこと」とありますが、単純に心とは言えません。深い心、魂、霊と呼ばれる深層の意識をさすと、私は考えてみています。
 そこから「生ける水」は湧き出てくると言うのですが、もっと学びたいですね。(次号に続く)□《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
われを仰ぎのぞめ、さらば救われん7
                              (1969年8月24日礼拝説教)

 人を死刑にするのに、これは罪人である、カタリである、謀反人である、人殺しである、と言って死刑にするのならわかる。しかし、これは主である、これは神の子である、と言って刑死させるようなことが人間の歴史にあったでしょうか。
 ところが、イエスはそういう歴史をお受けになったのであります。ここでイエスの素晴らしい人生がある。イエスのすばらしい生涯の終りがある。そこにキリストに対する神の御言の成就があった。神の御言の成就はキリストの死により成就されたのであります。
 さて、今から2百年ほど昔、1806年頃、イギリスのある片田舎で17才頃の少年がお母さんから勧められて教会に行こうと思いましたが、途中が吹雪でなかなか行けません。そこで近くのメソジスト教会に行きました。あいにく吹雪で牧師さんが来ておりません。それで近くの肉屋さんか洋服屋なんかの小父さんがおりまして、聖書を開きました。イザヤ書45章22節です。
 「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」
 この風采のあがらん人は、10数人の人が集っていた小さい集会で、ここの箇所を開いて朗読して10分ほど説教をしたそうです。単純に話をしてしまったら職業説教家でないものですから、もう言うことがなくなってしまった。困ってしまった。そこで、今まで来たことがない少年がつくねんと座っている、その彼に向かって「おい、そこの若い衆、お前さんは何か苦しんでいるね。見上げるんだよ。ルック・アップ。イエス様を見上げるんだよ。そうしたらお前は救われるんだよ」と言った。
 その時わずか17才のスポルジョンは、そこでキリストを仰ぎ見ました。そして、まことに救われました。
 その単純な決定的な信仰によって神は彼の霊に聖書の御言と聖霊をもって印したと言われます。このスポルジョンは、それから信仰に入って20何才でロンドンの大教会の牧師になって50才で死ぬまでに世界最大の説教者になった人です。
 彼は信仰に入った時に、別に光に打たれたわけではなかった。すばらしい形で病癒されるなどして救われる人もあるでしょう。しかし、スポルジョンはそういう型ではなかった。ただイエスを仰ぎ望め、そこにお前の救いがあるんだよと言われた時にハッと気づいた。その時に世界有数古今稀な大説教者が生まれたのです。
 それから一生彼は何度か躓きかけたそうです。苦しかったそうです。そのたびに奥さんが行ってスポルジョンよ、神の主の御言に立て、御言を離れるな、そして主を仰ぎ、望み見ましょうと言って、祈って祈って一万何千人も入る大会堂、孤児院等を経営する大伝道者に成長したのであります。
 ですから、今日私は「我を仰ぎ望めさらば救われん」という御言をはじめ読みました。これはイザヤが言った言葉です。地の果てとは何も地球の果てのみではないのです。地の果てとは今まで少しも神の御言を聞いたことのない地の果てということです。
 今現にこの集会室にいても実は今まで神の御言がよく聞けなかったという地の果ての人がいるかもしれません。そのように多くの地の果ての人がいる。さあ、我を仰ぎ望め、必ずあなたは救われる。この御言がスポルジョンを救った。今の私達もまたこの御言に帰って行きたいのであります。
 私達はともすれば逃げて地の果てにまで行きたくなる。しかし、地の果てに行くとも海の果てに行くとも、黄泉の底にくぐるとも、天のあげばりの彼方に行くとも、神は我々を追いかけたまい、神の御言をもって我々を被いたまい、神の御言の亜麻布をもって私を縛りつけて守って下さる。
 主よ、それならばどうかいっそう主と共に私を布に包み、また彼と共に復活せしめ、私をオリブ山にて主の御栄光を仰がしめたまえと我々は主の前に願わざるを得ないのであります。
 みなさん! 主を仰ぎ望もう。そのとき、本当に私達は主の弟子となるのです。私達が主イエス・キリストの弟子となるについては、いろいろな道すじ、いろいろな回心の型があります。あるいは、ジョン・バンヤンは汝の義は天にありという言葉を道端で聞くともなく聞いて心で感じたというだけのあのすばらしい回心をしました(このバンヤンの書く「天路歴程」は聖書に次ぐ世界のベストセラーと言われます)。
 ルーテルはこうでした。我々はおのれのヘソを見ていては救われません、我々は天を仰ぎ見るべきである、我々の義なるキリストを仰ぎ見るべきであると言って、ルターは救われました。そういうふうにいろんな回心の形もありますが、すべては一つである。一体であります。
 自ら我は主イエス・キリストの弟子なりという者は主イエスの子供であります。汝ら聖霊によらざればイエスを主ということ能わずとパウロは言いました。我々はイエスを主と呼び、我々をイエスの弟子と呼ぶ時に、真に我々はイエスの弟子、イエスのものであります。(つづく)

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by hioka-wahaha | 2010-03-16 10:46 | 日岡だより
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