No.426 妻トミさんを天に送って 2010.3.7

妻トミさんを天に送って

 妻を天に送るなんて、私にとって容易なことではない、このことを、つくづく感じました。
 妻の帰天以来、もう2週間たっているわけですが、未だにその事実に私の心は慣れません。どうかすると彼女のベッドのあった所に向かって「トミさん」などと声をかけようとする自分に驚くのです。
 教会の講壇下に妻の顔写真を置いてありますが、私は毎朝の早天祈祷会で彼女の写真の顔を見るわけです。そのたびに私は「トミさん、おはよう。イエス様、バンザイ」などと、私の普段の習慣語で妻に語りかけます。
 「『イエス様、バンザイ』とは可笑しいですね。『イエス様、ハレルヤ』じゃないんですか」、という声もありそうですが、もちろん、「イエス様、ハレルヤ」のほうが本当でしょうが、私とトミさんとの間では、「イエス様、バンザイ」と言い交わすことも多かったのです。
 講壇下の彼女の写真は3月一杯置かせていただいて、4月になったら、自宅の壁に戻そうと思っています。我が家の床の間は、今まで妻の病室にしていましたが、今後落ち着けば本来の客間に戻そうと思っていますが、そこには私の父と母の遺影が掛けられています。
 私の父も母も良いクリスチャンでしたので、その脇に妻の写真も置かせてもらえば、クリスチャン家族の写真の並びになります。将来、今後も私たちのクリスチャンとしての家族の顔を並べさせて貰いたいと願っています。《く》


人の死と、その魂の行くえ

 私は牧師として、信徒の方の死に巡りあうことは屡々です。一番古い経験は22、3歳の頃、飛河さんでした。未亡人で、母の友人でした。
 家庭訪問のつもりで、お宅を訪問すると、そのお宅の家の西側が空き地でしたが、そこに飛河さんが家の壁に向かって、しゃがみこんでいました。
 声をかけると返事がない。私の耳を体にあてると呼吸音がない。「大変だ、死んでおられる」と私は驚いて、しばらくの間、背中から手を置いて祈っていました。
 私の手から活ける神の命が飛河さんの体に流れ込んで行くのが分かるのです。しばらくして、
 「あっ、こうしてはおれない。うかつだった」。
 私は飛び上がるようにして、隣家の方に声をかけた。「飛河の奥さんが死んでいる。息子さんが会社に勤めに出ているはずだ、その方にも知らせねばならない。医師や警察へも知らせなくてはならん」。
 そういうことに私はしばらく、と言っても僅かの時間でしょうが気づかずに放っていたわけで、やっと近所の方々の大騒ぎになったのでした。
 その夜のお通夜に参席して、私は思わず亡くなったその方の額に手をあてて祈った。そこでびっくりした。
 あの家の壁に向かってしゃがみこんでいた飛河さんの体に手をあてて祈っていた時、私の手から何かジンジンするような命の流れが、飛河さんの体に流れ込んでゆくのを感じていたのだ。
 それが、今、夜になって、お通夜の席に寝かされている飛河さんの遺体には、ジンジンと流れていた電気のような流れが全然止まっている。これはどうしたことか。私は驚いた。そして「あっ」と気づいた。
 あの時にはまだ、飛河さんの体に私の祈りの力を受け入れるイノチがあったのだ、それが今は、途絶している。私は人間の肉体にあるイノチの力の流れに気づいてびっくりした。私のこうした神秘な世界についての初めての発見であった。こんなことを教えられたことはまだ一度もなかった。ただただ、不思議な体験であった。
           *
 その後、私はスエーデンボルグやサンダー・シングの本を読んで、こうした死後の世界の神秘を学ぶようになる。しかし、その頃は、何の予備知識もないから、ただただマゴマゴするだけで、面食らっていた。
 あの家の壁にもたれて倒れ込んでいた飛河の小母様の体にドンドン命の流れが流れ込んでいたあの感覚を私は今でも忘れることはできない。
 その後、古後さんの奥さんや、最近では中野兄の奥さん高代さんなどの例で、確かにそうした霊というか命の流れを感じるのは、その後では慣れてしまった経験になったが、当初のころは驚くというよりは感動の時であった。
          *
 人の体が死んだ後、5時間か何時間が分からないが、しばらくすると命の霊は去って行くようである。
 こうした説明はチベット仏教など、説明がくわしい。エジプトの古い宗教書にもくわしい。真実かどうかは別として。
 時々、死んだ筈の人が、意識がよみがえって生き返ることがある。医学的は仮死状態だったと説明するだろうが。こんな話がある。ある人が死んだ。その人の遺産の問題で遺族の間で激しい争論が起こった。ところで、その争論の行われたのは、故人の枕もとであった。
 後にその一旦死んだ筈の人が生き返って、あの枕もとで争論していた遺族の連中に、あの争論のことを繰り返して、「情けない」と不満を言って、その人々を恐縮させたと言う。
 それはともかく、死んだ人の霊(魂)はどこへ行くのか? 神に愛される人は、天国に行く。神の愛に背いた人の霊(魂)は地獄に行く。神の福音を聞いたことがなかった人は、ひとたび煉獄に行く。
 煉獄には慰めの場所と火の場所とがあると言われる。慰めの場所で訓練を受けた人は天国へ昇れるのかも知れない。キリストの福音を聞いただけで、まだはっきり分からないで、信じて居ない人はどうなる? いやあ、それどころでない。キリストの福音なんか、まだ聞いたことのない人。日本で言うなら、徳川時代、それ以前の人たち、まだイエス様の福音を聞いてもいない、そうした人たちはどうなる? 地獄に行くほかない? それは余りにも不合理、神様の愛の法則に反するのじゃないか、という人もあろう。尤もです。
 そうした人たちのために神様は煉獄を作られた。煉獄というと、地獄の一歩手前みたいだけれど、実は天国と地獄に分かれる前、その一歩手前の場所です。そこは厳しい戒めの場所でもあるが、また慰め、励ましの場所でもある。じっくり反省し、そして人生の終わりの覚悟を決める場所である。ここで神様の慰めに預かろうと決心するならば、そこから煉獄の慰めの場所に行って信仰の学びを得て、天国への決断場所におもむくのです。そこに於いて、天国はあなたのものになるのです。
 これを救いへの「セカンド・チャンス」と呼びましょうか。信仰のしっかりしなかった人たちのために救いの確認を願う地上に残る人々にとって、つまり彼らの救いの最後の機会を執り成したいと願う人々のために良き導きの言葉にならないでしょうか。《く》
※以上はキリスト教界の定説ではありません。つまり釘宮の私説です。
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by hioka-wahaha | 2010-03-09 12:24 | 日岡だより
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