No.425 妻トミさんを天に送る 2010.2.28

妻トミさんを天に送る

 先週2月21日主日の朝、妻トミさんを天に送った。86才だった。
 自分の妻をトミさんなどと「さん」づけで呼ぶのは旧日基系の大分教会の牧師・宮松治先生の影響である。先生はよく自分の奥さんを「さん」づけで呼んだ。講壇の上からの説教でも、また普段の日常会話もでも。だから私もつい、宮牧師の真似をして自分の細君をトミさんなどと呼ぶようになった。
 トミさんの誕生日は大正13年1月2日、生まれた所は現在の大分市鶴崎・七軒町、幼い時は同じ大分県の東国東郡、安岐町の祖母の側で育ったようだ。
 やや成長して、父が営林署の署長だったので、あちこちの転任にくっついて廻った。福岡や鹿児島など。女学校は宮崎の高鍋に通ったという。その後、女学校を出ると、大分の岩田高女という現・岩田高校の前身女学校の、今では言えば短大みたいな補習校に通った。
 私が初めて彼女に会ったのは、鶴崎集会においてである。その頃、鶴崎町(の中央通り)西町の林正貴兄宅にて開いていた小さなキリスト集会に来てくれたのである。当時写真館をしていた松村さんの奥さんに奨められたのらしい。
 この松村さんの写真館は奥に引っ込んでいたが、その表にあったのが木南さんの婦人服の店。その後、大石さんも来始め、後に私の妻になる簑浦トミさんと木南さんと大石さんが、鶴崎集会の三羽ガラスになる。キリストの福音大分教会の創世記である。
           *
 わが妻、トミさんは求道者としては抜群だった。もっと良い指導者についたならば、もっとすばらしいクリスチャンになっただろう。私の手許では気の毒だったね。しかし、私によくついて来てくれた。
 一時は私を世界一の牧師と思ってくれていたから、嬉しい。しかし気恥ずかしい次第。そこで、後に手島先生やチョウ・ヨンギ先生などに接して、「世界は広いな、わが旦那さん以上に凄い牧師さんがいたのか」と驚いたわけだが、しかし天下の牧師先生の奥様がた、やはりご自分のご主人にそこまで傾倒することは良いことです。わが女房にそこまで傾倒されて、頑張らない旦那さんはいませんよ。
 トミさんは、子供にとっても良い母親だったと思うし、だから家庭も幸福だった。中年期のわが家の貧乏はひどいものだったが、トミさんはそれに負けなかった。たった一度だけ、近所のお店にツケがたまりすぎてこれ以上行けないと言って泣いていたこともあったが、そういうことはたった一度だけだった。
           *
 独身時代、私は大分県立聾学校の教員だったが、そこにもよく尋ねてくれた。こういう時、私に決して女性感覚を与えなかった。これは無二の信仰の師として私に接してくれたお陰だったと思う。
 だから鶴崎の集会を終わって、毎週私を鶴崎駅に送ってくれる、その鶴崎駅のプラットホームまで送ってくれるが、その時、私は女性と二人で歩いているという警戒感を全く抱かなかった。そういう心配をさせない自在感覚があの時のトミさんにはあったと思う。
 何よりも立派だったのは、その求道精神だった。当時、私と彼女との間に学生諸君や青年期の恋愛同志の間の交換日誌みたいなノートを交わしたことがある。私は今でも、求道者の指導にはあの交換日誌が良いと思っているが。
 信仰上の悩み、疑問、探求、好奇心、すべてを包み隠さず書く。それを牧師のほうは真っ正面に受けとめて返事を書く。牧師としては、下手をすると、非常に危険な方法ではある。だから本当はすべての人に推奨できる方法ではない。しかし、トミさんにはこれが向いていた。非常に効果的だった。
 時々、彼女が気取ってカッコ良いことを書いてくる。私はすぐ、その一文の下に書く。「あなたは、こんな言葉をどこで習ったんです。今のあなたにはこんなことを言えるはずがない。信仰成長のために先輩のかたがたの信仰を見習って真似ることはいいことですが、しかしこういう発表文章だけを人真似して、これを書いたり公表することは知識過重に引きずられて、ついには陥没しますよ」、と書き留めたこともあります。
 こういう言葉は口で言われると、反発を感じて抵抗されるのですが、ノートに書かれると、じっと考え込んで自分を見つめる良い機会になるんですね。こうしてやや過酷な私の訓練を素直に受けながら、トミさんは成長して行ったかとも思います。
 トミさんの回心は1951年(昭和26年)1月8日、明確なコンバーションだった。もちろん、私は自分のことのように喜んだ。そして、その年の11月18日、当時、別府不老町教会の野町良夫先生より洗礼を受ける。(ちなみに私は野町先生とは非常にウマがあった。その3年前の霧島聖会での野町先生の熱血説教は忘れる事ができない)。
 1952年1月、トミさんの親しい信仰の友であった大石美栄子さんが静岡県三方が原の聖隷保養園に行く。
 その12月にトミさんが私の元にきて、結婚する。
 1955年の4月から、大分市県庁裏の町村会館にて毎週日曜の集会を始める。この年の10月、木南真佐子姉が回心。その後も少数のメンバーでも明確な回心者が生まれる。これは感謝でした。
 1956年9月、私はそれまで6年奉職していた大分県立聾学校の教職を退職する。年金の資格が取れる寸前に、思い切って退職。私の気分は上々だったが、妻はどうだったでしょう。黙ってついて来てくれたトミさんに、今も感謝!
 1957年1月、町村会館の集会は30名を越える。同年4月の復活節に、妻トミさんを同伴、熊本の辛島町の手島先生の聖書集会に行く。「神の幕屋」偵察のつもりだったが、異色ある手島先生の聖書講義に圧倒された。私の信仰にも大影響を受けましたが、その後離脱、みなさんにご心配かけた。すべて、こういう時トミさんと同行二人。《く》

〔御礼〕
 巻頭に記しましたが、妻トミさんを天に送りました。主日の早朝のことで、そのまま棺に納めて礼拝堂に移してもらい、信徒の皆とともに主日礼拝を守りました。翌22日に前夜式をフルゴスペル・イエス・キリスト教会の永野誠治牧師に、23日に葬儀を大分カルバリチャーチの橋本守牧師に司式をしていただき、葬儀ではチャペル・ノアの広田勝正牧師に祝祷をしていただきました。
 ここ5年は脳梗塞の後遺症により自宅で、介護職や訪問看護の方のお世話になりながら過ごしていました。一昨年に気管支に腫瘍が発見されてから、何度か命の危険をくぐりぬけ、奇跡的に2年間を過ごしました。
 妻の顔は息がなくなってから、刻一刻と変化して穏やかな穏やかないい顔をしていました。「すぐに火葬に附してしまうのが勿体ない」思いでしたが、天国への凱旋を、ハレルヤ! と叫んで棺を送り出しました。
 こうしてトミさんは天に在すイエス様のもとに帰りました。結婚して57年でした。天における再会の日を待ちつつ。(釘宮義人)


※連載中の「われを仰ぎのぞめ、さらば救われん」は今週は休みます。
[PR]
by hioka-wahaha | 2010-03-02 10:13 | 日岡だより
<< No.426 妻トミさんを天に... No.424 キリスト教とは何... >>