No.422 人は猿の子孫ではない 2010.2.7

人は猿の子孫ではない

 今の学校教育では、進化論が基礎になっています。宇宙すべてのものは、原子や分子が組み合わされて、偶然出来上がってきた最初の生命が段々進化してきて、最後には猿から人間へと出来上がったのだ、という考え方です。子供たちを教える学校の教科書や教師たちはみなこの考えに沿っていると思います。
 クリスチャンである皆さんの家庭ではどうでしょうか。お子さんがたに創世記の最初、神様が人間の祖先、アダムをどういう風に造られたか、キチンと教えていますか。
 あの聖書の物語は神話の一種だよ、本当は矢張り原子や分子から次第に進化して猿や人間になって来たんだと、近代科学のとりこになっていませんか。
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 太陽系、銀河系宇宙、その外にある一切の総宇宙や他宇宙を含めて、凡ては唯一の父なる全能の神様によって創造されたと、あなたは信じていますか。
 この神様により私たちも造られ、その神様の化身と言ってもよいイエス様により私たちは悪魔の手から救われて神の子とされている。これが私の信仰です。もっとはっきり言うと、イエス様は人間の体を持っておられたけれど、もともと神様なんだ、これが私の信仰です。
 イエス様は40日断食し、修養して、あのような神様のような方になられた? そうじゃないんです。イエス様は本当に神様です。この方が人間の罪の凡てを背負って十字架にかかられた。これがキリスト教です。このイエス様こそ、私たちの主です。《く》


(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)
われを仰ぎのぞめ、さらば救われん4
                             (1969年8月24日礼拝説教)

 そうしてイエス御自身が私たちの兄貴として、長兄として、主として、聖書の前に従順であったということ。成就さるべき言からイエスは一歩も離れることがない。その時にイエスは何とも情けないユダの反逆裏切りを神の御言の成就として受け止めているということ。それをこの記事に拝読できます。
 私どもはよく最善が起こり、私たちの肉体に都合の良い事が起こる時に、ああ神様感謝でありますと手を打ち喜ぶけれども、しかし、私たちに最悪の事が起こった時にも、そこに神の御言を拝し、真に今こそ神の御言が成就せんが為であるということを(意地で言うんじゃ駄目ですよ。思い直すんじゃいかんですよ!)悟らされる人、そういうように導かれる人は幸いだと思います。
 私はこのたび新しい集会を開きます。今度は新しく生まれ変わってやりますと、今日の私ほどではない、もっとレベルの低い次元の低い思想で思ったんです、決心したのです。ところが、次の日の朝、息がおかしくなってちょっとも動けない程に悪くなり、去年そっくりになりました。
 そこで心電図をとってみると、去年とはガラッと変わっていて、心臓がすっかり参っている。医者は、これではいけません、最悪の条件です、と言う。これ以上、指標が上がっても下がっても心臓マヒでコロッと行くところですよと言ったんです。
 とにかく入院しなさいと言うので、三日間入院しました。しかし、二日目にはけろっとしていましたが、とにかく心臓が参っているんですね。
 心臓と言えば、イエスは十字架上でブロークンハート(心臓破裂)して死んだんだとある医学者は言いましたが、イエスは人類に片思いして失恋(ブロークンハート)して死んだのですね。
 私も小さな伝道者として片思いしてブロークンハートして死んでも悔ゆることはない、たとえ二十年の命が十年になろうとも悔ゆることがない、どうかこの命、体を使ってください、と神に祈ったのですが、それがその時の偽らざる私の気持でしたね。
 その時より私の生涯が晩年に入ったという気持が非常にしだした。今四十七才ですから、まだ中年ですよね。でも、もう晩年だなーと思う、この晩年が三年続くのか五十年続くのか知りませんよ。それが五年であろうと五十年であろうと、僕の生涯が晩年に達したと、そうしてその晩年をどうか主のために用い尽くしたいというのが先日の手紙に書いた「最後の血汁をここに注ぎ尽くしたい」という意味であります。そうして皆さんと一緒に主の御栄光を表したいというのが、私の心でございます。
 とにかく去年もそうでしたね、去年前半は良かった。大勢集まって、七月からは本年後半期です、さアやるぞ、と呼ばわったら、次の日には死にかけた。何か私が人間的決意か知らんが、「主よ、やります」と言うと主は私を叩く。今年も「新しくやります、主よ、命を取ってくださってもよろしい」と言うと「ああそうか、では命を取るぞ」とこう来るわけですね。あたりまえな話なんです。
 皆さんはなかなか良く祈るようだけれども、私は怠け者ですから、あまり祈らない、すると集会の日など、みんなが来始める、神様が私にみなさんの「魂」を要求なさる。私はその接点に立って何を言うべきか。
 ちょうど、私はスイッチのようなものです。ここまで電気が来ている。みんなは電灯を持っているが、スイッチを入れなけりゃ、灯はつかんね。電気があまりに大きければスイッチはショートして吹っ飛ぶ。そこで「さあ神様、ここで私が接点になります」と言って、自分をスイッチにパッと入れると、いつも祈っている強いスイッチなら良いけれども、弱りきり、錆びつかれたスイッチですから、高圧電流でも来ると、パカンと爆発する。それを毎週毎週くりかえす。そんなふうで集会するたびに祈っていると、胸がキューッと痛んでくる。どうにもならなくなる時が集会前にしばしばあるのです。ああいうことを繰り返したら命も縮まるだろうと私は思う。
 とまれ、こういう病気になって痛めつけられて神様と呼ぶ力もないほどに苦しめられて、まったくの無力になってベッドに放りこまれる。「主よ、汝は我をもたげて投げ捨てたまえり」と旧約聖書にありますが、まことにその通りであります。
 またイエスは多くの人から「彼は人を救うて己を救うことあたわず」と言われましたのに似て、今まで病気ぐらい何か、神様が癒してくださると言って来たが、この私が、今こうして苦しんでいるのかと思うと情けない気分のどん底におちいる。――でも、その時、主の御言がそこで成就する。
 汝の人生がここから始まる、お前はその弱さのどん底から私を見上げなさい。そう言って私に眼をかけてくださるキリストの姿がありありと見えるのです。(つづく)
(※文章中の内容はすべて1969年の時点のことです。)
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by hioka-wahaha | 2010-02-09 11:27 | 日岡だより
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