No.419 われを仰ぎのぞめ、さらば救われん 2010.1.17

(以下は1969年10月発行「我ら兄弟」創刊号より)

われを仰ぎのぞめ、さらば救われん
                            (一九六九年八月二四日礼拝説教)

 今日は御参集ありがとうございます。先にお手紙を差し上げましたとおり、ここに主イエス・キリストの弟子兄弟団と名を改め、この集会を大分福音集会と命名し、皆様とともにこれを確認したいと思います。主よ、どうぞ、この事の運びを許し、今後を守りたまわんことを。
 それでは、今日ここに主イエス・キリストの弟子兄弟団大分福音集会の開会を宣言いたします。
 「天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし」とイエスは仰せられました。我々がその名称をいかに変えようと、また集会の形式をいかように変えようとも、その基盤にあるものは厳然たる宇宙の法則、神の生命であります。
 神の御言葉を基本に学び、私たちの信仰は神の御言葉によって活気づけられるということは昔も今も変わることはない。私は集会を改組しますと言いますが、テキストは先週の続きのこのマルコ伝第十四章をそのまま用い続けます。
 マルコ伝をテキストとして開いてからすでに半年近くになりますね。神様の御言葉は非常に不思議でありまして、毎週毎週説教者としての私個人の感情や集会の諸君の事情にかかわりなく、順を追ってくるマルコ伝のテキストで結構時機にかなった聖書講義ができるのです。だから、今日、ここで語られた聖書解釈は今日だけのものでありまして、いつでもどこでも通用するというようなものではないかもしれません。
 世には、立派な牧師や学者さんがする立派な聖書講義があります。それはどこに出しても恥ずかしくない立派なものですが、そのような講義は私にはできません。私の説教は極端に言えば、一九六九年八月二十四日午前十時半、今日この集会においてのみ意味のある言葉であるということができます。ですから、同じテキストで全く別なことを言わされることがあるのです。たとえば、先週も、この大分集会と夜は鶴崎集会とで語らされましたが、それぞれ同じ聖句によりますのに、違った言葉が語らされます。
 さて、今日は、旧い集会を解散して、新しい集会を始めると言いながらも、このマルコ伝を引き続き用いて語れるということは非常に有り難いことだと思います。
 聖書ではしばしば時代という言葉をアイノーンという言葉で表現しておりますが、世とは一つの断絶した時代を指します。たとえば、明治維新の前後というように、一つの断絶したエポックをさします。
 それを宗教的にもっともっと長い目で、二千年、三千年、五千年とふんで、人類が無知蒙昧なる時代から成長してきて一つの膨大なる大文明を作りあげ、そしてまた自らの文明に破れて滅んで行きます、そのような何百万何千万年のリズムをもって、人類が興亡していくようなアイノーンという「時」がある。それらそれぞれの時代がうたかたの如く興亡していくかのように見えるけれども、「見よ、天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし」とおおせられたその大真理に私たちは立って、この真理の中に生命の根源をたもっているのであります。
 そのことを思う時に、小さなこの釘宮という移り気な男が、今度また集会を解散という。何と先生は変わりやすい人だ、今日来てみれば、頭は丸坊主にして、またぞろ昔の一灯園まがいのヒッパリを着ていると、いろいろ感じなさるでしょう。
 けれども、私のこのむらぎな移り気な心というものは、逆に言えば、非常に時の兆しに敏感である、また我々自身の信仰の成長・衰亡の動きに敏感であるということであります。その予兆にさきがけて打って出る、新しいものを作りあげていくという私の心がけに他なりません。今生まれしみどり子の如く、主の新しいキリストの弟子となって生きていきたいと思うのが、それがこの度の私の考えでございます。今日の集会は人数が多かろうが少なかろうが、実は大事なエポックメイキングな集会であると、心に銘じて私は準備したのであります。
 からし種一粒ほどの信仰をも百倍、千倍にしたもう神様を私は信ずるのであります。ここに一粒の真珠があれば商人は全財産を売り払ってでも買いに行くと主は仰せになったが、それは我らに対する訓戒としての比喩であると同時に、また主ご自身がここにたった一個の小さい真珠の如き魂を見つけ出した時、全宇宙に充満したもう神の全財産を投じてでもその魂を買おうとされる御心の物語であると私は思う。
 イエスの愛とはそういう愛なのです。この神様の愛がこの小さな私たちの一人一人に、自分で考えてみても何もないようなちっぽけな魂だけれども、この魂を畑の中にかくれている神授の如くに思いなさって、そのために全宇宙に、天界に、霊界にキリストの体に満ちあふれている全部の宝を持って来て、私たちを救おうとなさったということ、そのことに十字架の意義がある。私たちの救いがある。
 これほどに私たちが愛されているということ、これこそ天国であります。私たちの財産、知恵、地位、能力、何でこれを勝ち得ましょうか。神が私たちを愛してくださるからこそ、向こうからただ一方的にいらしてくださるからこそ、私たちは救われるのであります。
 私は永遠の昔から今に至るまで、このだれも顧みることのなかったところの、この畑のどん底に埋もれているでくのぼうの如き者であったけれども、これを大切に古代出土品のカケラを博物館に収納でもするように私たちを取り扱ってくださる神様の御愛に生かされているのであります。
 これはまことに小さい集会であります。あるところには千人も二千人も集まる集会もあろうけれども、この大分の片田舎にわずかに少数の者がそろうて、よそ目には意気も上がらず、だれの目にもとまらず、ケシ粒のような集会をいとなんでいるように見えるけれども、ここに主のいつくしみあふれる眼はとどまりたもうて「我汝を愛す」と語りかけてくださるということを信じるからこそ、何の恥じらいもなく、悲しみもなく、疑いもなく、ここに僕らは集会を営むことができるのです。本当に有り難いことだと思います。(つづく)

〔あとがき〕
 この文章を書いた頃は非常に移り気な頃だった。小さな集会だったから、教会と呼称するのは遠慮して「集会」と称していたが、確かにまだ小生の私宅の前庭の空き地に建てたトタン屋根の家、畳敷きの小屋だったが、これを利用して、玄関の引き戸を開けると、すぐ狭い上がり口があって、そこで礼拝した。
 開会時刻が厳格で、S姉が1、2分遅れてきて、会場に入れなかったことがある。S姉はそのまま玄関の戸の外で礼拝が終わるまで二時間ほど待っていた、その頃は私の聖書講義も時間が長かったから。思い出せば、我がままなセンセイだったと、恥ずかしくもあるし、懐かしくもある、そういう時代でした。《く》
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by hioka-wahaha | 2010-01-19 15:46 | 日岡だより
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