No.414 上京にあたってご挨拶 2009.12.13

上京にあたってご挨拶

                釘 宮 義 人
 
 ハレルヤ!
 上よりの豊かなご祝福をお祈り申し上げます。歳末も近づき、何かと慌ただしいこの頃ですが、お変わりもありませんか。
 小生もお陰様にて年に比しては元気に過ごさせて頂いています。他事ながらご放念ください。年と言えば来年一月早々誕生日が来まして、いわゆる米寿の八十八歳になります。年月の足の速さに驚くばかりです。
 
 ともあれ、本日は東京秋川集会のクリスマス礼拝の奉仕を仕ろうと昨日、空路上京して来ています。
 こちらの秋川集会の外、二、三の各御家庭にも立ち寄ってクリスマスの小家庭礼拝をさせて頂いてから、大分に帰らして頂き、大分教会でのクリスマス礼拝の準備に入る予定です。
 例年のことですが、本年も主の御恩恵に満たされて何一つ欠けることなく祝福され、一年を過ごしました。ただただ私どもの神様とイエス様に対する御恩に報いる努力の欠けたことを、申し訳ないと思うばかりで残念ですが、でも神様の御赦しの大きさに感銘して今年もクリスマスと越年を迎えることになるのかと、お詫びしつつ感謝しているところです。
 来年こそは、些かでも本年に倍する伝道と牧会の成果を上げて、感謝の年を送りたいと念じています。信徒一同と共にこの祈りを神様に捧げます。《く》
 
 
癒しの信仰について(3)

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 非常に理解しがたいのは、正しい、かつ信仰の厚い人が病気、しかも難病にかかるという場合です。それは多くの場合、その人を更に鍛練するため(ヘブル12:5~12参照)に、あるいは他の目的があるのでしょうか、その人に悪霊が病気を送りこむのを神様が見逃されることがあります。ヨブやエリシャやヒゼキヤやパウロなど、その例でないでしょうか。
 そういう時、神様のほうから「この病気のためには祈るなかれ」等の啓示があれば、人間のがわとしては納得しやすいのですが、多くの場合、そこまでは分かりません。そこで、ただひたすら神様の善意を信じ、また御手に委ねて健康の回復を待ち、あるいは死を覚悟するということが多いのです。
 この点でヨブのように神様に不平不満を訴え、反抗的にすらなる人もあるのは、人情的には尤もな感じがします。ヨブを忍耐の模範のように言うことが多いのですが、実は理解のにぶい頑固者のヨブをとことん忍耐したのは神様のほうでなかったでしょうか。
 しかし、「神様が悪霊の病気を来たらせるのを見逃しておられる」等のことは特別な路線であります。主要路線としては、病気はサタンのがわから来たもの、これを癒すのは神様の御わざと単純明解に認識しておくほうがよいのです。
 広い意味で言えば、病気の原因はすべてアダム伝来の人間の罪にあります。その病気を来たらせる経路は悪魔の手中にあるのです。
 しかし、狭い見方をすれば、次のように言えます。
①病気の原因はその本人の罪から来ている場合が多い。
②また、悪霊の害意から一方的に病気が侵入することもある。
③また、単純に肉体の機能の欠陥や不調和、また心理的誘因からくることが多い(一般の常識や医学的診断のとおり。これとて人間の罪の性質から来ると言えばそれまでだが)。
 外典のベン・シラの書によれば、「医者は尊敬されるべき職業」であります。聖書の他の箇所では医者を軽んじ、疎んじているような記事もないわけではありませんが、でも「病あるものは医者を要す」という社会通念をイエス様も一応支持なさっているように思えます。
 しかし、病気には普通の医薬では直りにくい難病は多いのです。また、その現場に医薬を求める利便がない場合(絶海の孤島とか、刑務所中などで)もあります。そういうとき、だれでも奇蹟的癒しを求めるのは当然でありましょう。それは又、あきらかに聖書的だと思います。
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 神様による癒しにおいて「祈る」という行為は、聖書では案外少ないのです、特に新約聖書では。もっともどなたもよく知っているヤコブの手紙の第五章一四節では、「祈る」ことが求められていますが、しかし大抵の場合は、特にイエス様の実例では命令して癒す、というタイプが多いのです。
 明らかに悪霊からきている病気の場合は「悪霊を追い出す」ことのようです。ですから私たちも、キリストの権威と、キリストの弟子としての信仰によって、大胆に言葉を用いて追い出すことをします。
 単なる病気の場合は「熱を責め」、また「手を延ばさせる」等、具体的に対応します。
 一見して当の病人に、すでに癒されるべき信仰があることが分る場合があります。使徒行伝一四・九のルステラにおいてパウロが、足の悪い男について経験しているとおりです。
 即座に癒される場合と、時日が延引される場合があります。また、いつ癒されるか、それが分る場合もあり、分からない場合もあります。「三日したら全く癒されます」などと言ってしまうこともあるのですが、そうした時は「預言」の霊も働いているわけです。
 癒しの賜物を頂いている人にとっては、「癒し」は、いつでも起こることでありますし、又その自信を与えられています。ただし、たとえ賜物を与えられていなくても、信仰をもって大胆に命じるなら、相手が信者であろうと、未信者であろうと、癒されることが多いのはよく経験するところです。(つづく)《く》
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by hioka-wahaha | 2009-12-15 12:02 | 日岡だより
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