No.413 国井キノさんを天に送る 2009.12.6

国井キノさんを天に送る
 
 国井キノ姉を天にお送りした。先週12月2日午前9時33分、お世話になっていた緑が丘保養園からの電話である。急いで行ってみたが、平和な顔をして眠っているかの如くであった。
 旦那の一男君は同じ病院の別棟で、この知らせを聞いてもよくわからない様子であったらしい。前日には面会に連れて行ったがキノさんを認識できなかったと言う。病棟の人に聞くと、葬儀に出てもきっとすぐに忘れるだろう、と言う。
 夫婦二人ともに脳梗塞や認知症をわずらってしまった近年、近くに身内のいない二人の世話は、教会で(特に病院や施設の世話になるようになってからは相良姉が中心となり)してきた関係上、葬儀一連のことも一切を教会でした。
 葬儀には牧師館のアルバムにあった写真から彼女の影像を拡大して礼拝室前面に飾ったが、大きく両手でピースサインを出して呵々大笑している彼女の姿がある。呵々大笑とは女性には相応しくない形容だろうが、彼女を知る人には直ぐに思い出せる彼女の屈託のない姿であろうと思う。行年72歳、出身は東北の北上でなかったかと思うが、はっきり確認していない。
 一男君には、病棟に頼み、葬儀に列席してもらった。やはり葬儀中も何もわかったふうではなかった。それでも、キノさんの葬儀に夫である一男君には列席してほしい、それが私たちの思いであった。
 葬儀も終わりになった時、一男君を見ると表情が一変していた。キノさんの死を理解したのだ。お花を入れるために棺の蓋を取ると、車椅子の一男君にもキノさんの顔がよく見えた。一男君は泣いていた。
 キノさんは本当に安らかな顔をして横たわっていた。元気な時の真っ黒な顔でなく色白で、病気のせいか少しふっくらとしている。それでも、前日には認識できなかった妻を一男君はしっかりと認識し、おいおいと泣いていた。
 まわりのみなで、キノちゃんは天国に行ったの、神様のところに行ったんだよ、と声をかけると、ウンウンとうなずき、ハレルヤ!と言うと、後遺症で動かぬ手を肩まで上げて応答した。
 キノさんは一足先に天国へ帰った。残った私たちはこの地上での人生をもう一足も、もう二足も主とともに励み、天へと凱旋しよう。《く》


癒しの信仰について(2)

 ある有名な牧師先生は、こう言っているそうです。
 「『どうしても癒されたい』という信者は、
 天地万物を創造された方に対して、『自分を
 癒すべきである』と命令しているのです。
 それはこの上なく失礼なことです。」
 このようにおっしゃる気持はよく分るのですが、でも私は言いたいのです。
 信者のみならず、すべての人の病気を見て、深くあわれみ(ご存じでしょうが、聖書に出てくる「あわれむ」という言葉ははらわたがねじれるように同情するという言葉です)集まってきた人たちをすべて一人残らず癒したのはほかならぬイエス様でした。このイエス様を模範として少しでも見習いたいというのは誤った考えでしょうか。そんなことは無いとおもいます。
 あとでも触れますが、私たちはけっして神様に「癒してくれ」と強要するのではありません。命令するのでもありません。私たちは悪霊に命令するのです。
 私たちは悪霊にたいして「出て行け」と命令します。病気にたいして「出て行け」と命令します。また、熱を責め、あるいは「床をとりあげてあゆめ」と病人に命令することもあります。これらはすべて聖書に書いてあるとおりのことを素直に実行しているだけのことです。
 聖書に書いてあることを、そのままに見習って実行する。それが「神様に対して失礼なこと」になるでしょうか。私はそうは思いません。それこそ、イエス様が期待しておられる「信仰」というものではないでしょうか。
 正直に申しあげますが、私たちが幾らイエス様の真似をして、聖書にあるとおり病人にたいして癒しの行為をしてみても、イエス様のようには完全に患者を癒すことができないのです。でも、イエス様でさえ、ナザレでは少数の者しか癒すことが出来なかった、とありますし、また盲人の癒しでは一回では完全に治癒せず、二回手をあてなされたことが聖書に記録されているのを知って、自身を慰めているのも事実です。
 然り、私たちに多少の、いや大変多くの癒しの失敗があったとしても当然のことです。それを口をぬぐって否定し覆い隠す気は毛頭ありません。それはまさしく私たちの信仰や霊的知識や力の足りないところから来るのでありましょうから、申し訳なく思うのでありますし、またこの賜物について更に成長し、力を増し加えるよう祈っているのであります。
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 端的に言えば、病気はサタンから来ます。人が罪を犯し、神様の前から去りエデンの園から放逐されたとき、彼らの労働も、作物を出す地も、共に呪われました。その時、多分、病気になりやすい肉体の欠陥も、人間に生じたのでありましょう。その元々の原因はサタンにあり、また人間の罪にあります。しかし、
 ある一人の人が病気になったとき、直ぐ様この病気を招いたのはその人の罪の故だと言って責めるのは酷なことが多いのです。人類全体の罪が病気を人類の世界に招き入れているのですから、病気には人類の連帯責任のような面があります。ですから、イエス様の贖罪の型を私たちの身に受けるのでしょうか、他の人の罪の結果である病気を当方が背負うことになる、よくあることであります。(コロサイ1:24参照)。
 すべての病気は神の計画であるから「癒してください」と祈ることはないんだ、と言うのも一理ありますが、その理屈を極論すると、たとえばイスカリオテのユダがイエス様を裏切ったのも神様のご計画のうちにあったと言えないことはないし、そこで、だからユダには罪はない、ユダは神様のご計画どおりに動いたにすぎないのではないか、などと言う詭弁も起こるのであります。
 病気は悪魔が作ったものです。悪魔がその子分の悪霊に命じて、病気を人に侵入させ、病気をその人の肉体に現象化させるのです。
 人間の側にあきらかな罪があり、その罪の故に病気がはいりこむという戦況図は、悪魔がわから見れば病気を侵入させるに最も容易な作戦場面ではないでしょうか。そういう時、旧約聖書では「神が病気を(他の災難も同様)国や民に臨ませた」というような表現をします。また、人が異常に恐怖や憎悪等の暗い感情を持ち、あるいは不安や失望に陥っているとき、悪霊どもは病気をその人に臨ませるのは至極容易なことでありましょう。(次号につづく)《く》
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by hioka-wahaha | 2009-12-08 12:13 | 日岡だより
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