No.410 先立ち行きし江良兄よ! 2009.11.15

先立ち行きし江良兄よ!

 この11月10日、午前6時47分、我らの愛する江良兄は天に帰りました。
 この前、大分ゆふみ病院に入院したばかりだったと言うのに、もうそんなに急に天に召されたのですかと、神様を恨みがましく思わずにはいられなかったのでしたが、もともと大分ゆふみ病院そのものが、そうした緊迫した患者さんを迎えるためのホスピス病院だったのです。
 私は早速、大分ゆふみ病院に向かいました。ベッドに近づくと江良兄の遺体がそこにあります。私は思わず泣きたくなって、その上に顔を伏せます。私は思わず「江良兄!」と彼の名を呼びます。そうなると私は自然に彼の魂を見るのです。と言っても彼の姿を私の視力で見るわけではありません。しかし、信仰の目で見ます。
 そして私は彼に語ります。仏教的に言えば「引導」です。引導は文字どおり「手引きして道を導く」ことです。私自身、イエス様におすがりしつつ死んだ魂を神の国に導こうと思うのです。
 死んでいる人の耳は案外しばらく生きていて、聴力が残っているらしいと言われます。大分におられたカトリックの神父さんでしたが、ポーランドの出身の方がおられました。ポーランドでは亡くなった信者さんがいると、その耳に口を寄せて「おおい、天国へ行くんだぞう」と叫ぶんだそうです。そこで、私も真似をして死んだ方の魂に呼びかけるのです。必ず私の声を聞いてくれる筈と信じています。《く》

 
(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
 
人類のこれから
 
 ボールディングに従うと、世界の文明は破局に近づいているようである。
 第一に戦争である。単なる大国気分や、領土拡張論や反共十字軍的戦意にあおられて、ほらあなにこもって海草を食べつつ、核戦争に狂奔するということになりかねない。
 第二に人口の増大である。個の生目の尊重が、人類全体の衰弱、あるいは集団自殺をまねきかねない。新しい形の間引きがいる時代が来はしないか。
 第三に工鉱産業により排出される老廃物の公害である。地球の表面全体に死の霧がおそいかかりつつある。
 第四。右のすべてが、幸いにも万事うまく取り除かれた時、次に来るものは「退屈」である。爛熟期のローマ市民以上に、退廃した生活におちつくほかはないであろう。
 さはあれ、右のように想像の中で破局を予想する能力は地球上では人間だけのものである。そして、その予想される破局を回避する道を講じるのも、人間の能力のいかんにかかっている。
 この新しい型の能力は、凡そこれまで多くの人たちが考えてきた力、――― 腕力ではもちろんないし、計算力でも、語力でも、金力でも、軍事力でも、政治力でもない。
 敵を愛する技能、身を捨てて浮かぶ瀬を発見する技能、人を受け入れる技能、そういうこれまで聖人君子の道、この世の生活にはすべて役立たない空理空説と思われていた技能を、これからの人類は学習せねばならないだろう、とボールディングは言う。
 
公害問題の原点
 
 いなごが集団発生してコントロールを失い、雲のごとき大群となって大陸を横断して一挙に海に飛び込み、集団的ヒステリーというか、そういう状況で一種の集団的自殺行為をすることがある。そのようないなごの大群に一過された農作地帯こそあわれなもので、実も葉もくきも根こそぎやられ、一帯がまるで丸裸にされてしまう。
 今の日本の消費物資の濫費をみていると、まったく日本列島をいなご族が狂奔しているような感じがする。かつて軍部が国民をあおって好戦民族にしたてて、おしまいの頃はその国民の熱気に軍部の方が追いたてられて、ウヤムヤの中に国を挙げて敗戦に突入したように、今はテレビコマーシャルにあおられて大衆があれを買いこれを買い、とめどもなく貪欲に身をさらしている時、そのうち国全体・民族全体がどこかへ吹っ飛んで行ってしまうのではないかという気がする。
 今、大企業が方々公害問題で追いたてを食っているが、本気で追い出してしまうと、それもまた困るという心情が民衆の内部にある。逆に居座って益々もうけてくれという大衆投資家や、まだまだ紙やプラスチックを使いたいという大衆の消費欲望の熱気が企業の生産態勢を勇気づけるのである。
 貪欲は、徹底して身を破滅させるまで食いつくすという形で、自己処罰する運命を持っている。パウロが貪欲と偶像崇拝を直接結びつけるのは意味が深い。そう言えば、清貧の僧(良寛の如き)が、無心に仏像を拝むのを偶像崇拝とは呼ばず、かえってキリスト教の聖職者が地位獲得・教会堂建設に躍起になって身も心もいかれてしまう、それをこそ偶像崇拝と言うべきかもしれない。聖フランシスコが金を極度にきらい、僧房も石で建てさせなかった意味もそこにあろう。民が偶像をさけ、真実の神を求める時、貪欲は止むのである。
 コリント第一書7:31に「世に用うる者は用いつくさぬ如くすべし」(これは口語訳よりも文語訳の方が良い)とあるのは、そういう貪欲に対する戒めでもある。
 若い時は性欲や歓楽に、中年では事業欲や子供の教育に、老いては物欲や政治欲に執着し、むさぼり、それを極度にまで追いつめて味わい利用しつくそうとする。
 看取せよ。看取せよ。「この世の状態は過ぎゆく(Ⅰコリント7:31)」、永遠の相に汝の目をとめて、この世のことは「用いつくさぬ如く」、余地を残し、おつりをかえし、物も自然も時間も労働も神のために残しておけ。
 これが公害時代における民への預言者的発言ではないかと思う。
 

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↑墓前礼拝

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by hioka-wahaha | 2009-11-17 12:43 | 日岡だより
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