No.409 「我ら兄弟」No.2より「十字架の言(ことば)(つづき)」他 2009.11.8

(1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)
十字架の言(ことば)(つづき)

 神は、宣教の愚かさをもって信じるものを救うをよしとされた。だからと言って、単なる宣教の言葉が人を救いはしない。十字架の言が人の心を捉えるのである。
 
 十字架の言とは何であろう。それは初歩としては
(1) 十字架についての言(説明・感想)である。これは聖書や神学を勉強したり、自分で考えたりすれば分かる。
(2) 十字架よりの言(思想)。人間の思想ではなくて十字架それ自身が発する独自の思想。各自に与えられるとき、きめこまかな相違がある。これは神よりの一方的恩寵的体験であるが、また我々の側において祈りと冥想も大切である。これなくしては、深みある信仰生活は得られない。
(3) 十字架されたる言、ある聖句やその他の語句が、本来の意味を打破して、キリストの血で新しい意味を持つ。御言葉うち開けて光を放てば、おろかなるものをさとからしむとパウロがいう経験である。磔殺されたる言ともいおうか、十字架に封じられたる言ともいおうか。キリストの死と生そのものになりきって私の内になぐりこみをかけてくる言である。これこそクリスチャンを日毎に刷新せしめる霊語なのである。
(4) 十字架する言。伝道者の口より出でて、むなしくは帰らずといわれる必殺の語剣である。人の魂をキリストの名に、キリストの血に、キリストの復活に射とめ釘づけ殺してしまう言葉。これなくして強力なる真実の伝道はできない。
                 (九月二日朝、大分キリシタン殉教公園にて)
 

殉教者の血
 
 英語で殉教者のことをマーターと言う。これはギリシャ語のマルテユスを語源としている。マルテユスは訳すと「証人」である。例えばヨハネ黙示録第十七章六節を開くと、大淫婦バビロンの都は、聖徒の血すなわちイエスの証人の血に酔いしれていた、と書かれている。そのイエスの「証人」という字こそマルテユスなのである。
 初代教会は殉教者の血によって開拓されたと言ってよい。現今流行の新興宗教のように、病気治しや、金もうけなどの御利益宣伝により、信者を増やしたのではない。使徒行伝にはまだ多分に新興宗教のような奇跡ものがたりが載っているが、その後の書かれていない続使徒行伝時代においては「更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ……あざけられ、むち打たれ、しばりあげられ……石で打たれ、さいなまれ、のこぎりでひかれ、つるぎで切り殺され……(この世は彼らの住む所ではなかった)」とヘブル書第十一章に書いてあるような苦難にみちて、かつて、イエスが「彼らは……地の果てまでも、わたしの証人となるであろう」と弟子たちに約束されたように、まさしく多くの証人―――殉教者たちが輩出したのである。そういう殉教者の血が刑場のまわりに集まった群集の中に回心者を続々とおこしたのである。
 
 
殉教者の精神
 
 殉教者という言葉の原語は、もともと証人という意味であるということはさきに述べた。私はだから、その言葉を殉証者と訳したいと思う。
 死ぬということは、新しい生命に生きるということである。我々の生命はよろずのものの死(という生)の上にたてられている。それが、この世界の神的秩序である。その最底辺で、万物をささえるものが神の死(という生)である。
 よろずの生命は、互いに生死をかけていどみかみ合っているように見えるが、逆の見方をすれば、それぞれの生命を出しあって、大きい宇宙的複合的生命体を造りあげているともいえる。
 他の生命の為に死ぬとき、それは無償の行為である。我々の労働、研究、奉仕、その他あらゆる業は、本来個的生命の断続的な小出し―――つまり小さい死であって、それは無償の行為であるべきである。それが代価をもって買われる時、本来無償なるべき我々の死がサタンの金に横取りされているというべきである。
 神の国には、金は無いし、労働は凡て無償にして、喜びのわざである。
 父は子のために労し、子の成長のために、おのれの生命も金も名もいとわぬ。子が自分よりえらくなったと言って、それを嫉妬する親はいないし、子をさしおいておのれの名誉を求める親もいない。無償の挺身の業は親の子に対する業によくあらわれている。
 すべての人が無償の愛にめざめ、神と人とのために生死を賭すとき、そこに真の神の国がある。
 無償の愛とは何ぞ、殉証者の精神である。
 
  
異(こと)火(び)
 
 積極的な生き方の力、信念の魔術、潜在意識で金をもうけよう、などというアメリカ流の実践心理学には、二つの面がある。
「汝の信ずるごとく汝になるべし」
「すでに得たりと信じて求めよ」
「からし種一粒ほどの信仰にても山を移すべし」
 右のようなイエスの教えに全くそっている正しい面がある。それは、人間心理よりみた信仰の達成のメカニズムである。
 しかし、何を信じ、何を求めるかという事で、アメリカ流の御利益心理学はサタンの陥穽に陥っている。御利益と快楽にいざなう甘いささやきをもって、我々を自己催眠のワク内に連れ込み、ビアフラの飢餓を、ベトナムの悲劇を、黒人のなげきを、人の罪を、キリストの血を、十字架の御わざを、殉教の血汐を忘れせしめる異火である。それは決して聖霊の火ではない。
 
 
 以上は、釘宮義人個人誌「我ら兄弟」第2号よりの転載です。文章は1971年3月頃より以前に書かれたものです。次週も続きます。
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by hioka-wahaha | 2009-11-10 10:40 | 日岡だより
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