No.408 「我ら兄弟」No.2より「悔い改め」他 2009.11.1

(1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)

悔い改め

 律法の本質は福音である。そのことが分からないと、律法は形式化し、過酷となり、魂の冷却室になってしまう。
 福音は律法に血液を通わせ、新しい息吹をあたえる。その新しい律法に体を服従せしめるとき、クリスチャンの能力が外にあらわされ、内に秘められる。
 人がはじめクリスチャンになったとしても、実情は日毎に罪をおかしやすいものである。故に、ルターの言うように、クリスチャンの全生涯は悔い改めの生涯であるべきである。
 もし、われわれが純乎たる心を持って、キリストの新しい律法に従い、日毎に一日の自らを省みるとき、この欠け多く過ち多い肉なる我に嘆ぜざるを得まい。そのとき我らは、主の前に懺悔して御血汐の限り無き贖罪に預かるほかは無いことを痛いほど思い知る。
 悔い改めの信仰の欠如が、ここ十年来の私の信仰の欠陥である。日毎の悔い改めが、日毎の聖別をきたらせ、日毎の聖別が肉の死を呼び、日毎の肉の死が、霊の勝利を生むのである。
 常に私をきよめ(武士が刀をみがくように)、私を選びおき、常にえびらにおさめる矢のように私を御そばにたずさえて、世を歩みたもう主よ!あなたの御思いのまま、今日も存分に僕を用いたまえ。
 
 
キリストの十字架

 キリストの十字架は、私たちに何を示しているか。学び得るままに、教えられし処を以下に書こう。
(1) 神は世を救うために、自らは天界に超然として住まわれて、「汝ら救いを得よ」と全能の御言葉を垂れさせられる、というわけにはいかない。神は愛だからである。愛は意思であるけれども、情をともなう。神は天地最大の多感のお方である。故に彼は、世を救おうとして、地獄の底まで泥もウジもかきわけてもぐりこむようにして、罪人を求めたもう、十字架はそのシンボルである。
(2) 神は宇宙の哲理だとか、法則だとか、形而上学的真理だとか、そういう雲か霧を掴むような方ではない。人間は神を原形として造られたのであるから、神は一面、超越的に人間以上のものであるにしても、他の一面では、最も人間らしい人間、人間以上に絶対的究極的な人格のお方なのである。故に、一節に書いたような神の下降運動は、歴史の中に突入してイエスの生涯と、その十字架の死というような、ごく身近な具体的実践の道をとりたもう。
(3) 神の愛と、神の正義とが、人の世に対し、果敢なる干渉をもつとき、愛が罪を包もうとして破れ、罪が凱歌をあげているとき、破れてほとばしる血汐が、神の正義を武装せしめ、誇る罪を一挙に葬り去る、という霊的ドラマの舞台が十字架である。
(4) 十字架上のキリストに、初歩の私たちはまず、殉教者のさきがけとしての彼を見る。それは教理的には浅い見方かもしれないが、正しい見方である。真理把持者がこの地上に生きる時、死にいたるまでのこころみに遭うのは、格別おどろく程のことではない。現に迫害や苦難にあう者にとり、十字架上のキリストは、どれほどのなぐさめ、また励ましであろうか。十字架は端的に苦難のしるしである。これを喜んで負うことを主は望まれたし、また事実、これを負うことにより、多くの事を神学者以上に真に理解でき、修道者以上にめぐまれ、冥想者以上に霊操を得たのである。
(5) キリストの死が、身代わりの死であることは、深遠なる真理である。私のかつての師・手島郁郎は代罰説を嫌ったけれども、私は代罰説を信じる。もっとも、罰のみかは、他の多くの事につき、十字架上においてキリストは私の身代わりとなりたまい、すべての事を為し果たし、負い尽くしてくださったと信じる。私の死も生も、私の恥辱も栄光も、私の愚かさも英知も、私の罪も聖も、みな彼の中にあるのである。私は、私の義を私の内に探さない。私は私の義をキリストの内に発見する。この心の中での信仰的振替作業は、最初の回心の日にキリストにじかに学び、今に至るまで我が内に確保している信仰の技法である。
(6) キリストの十字架は、前節の「身代わり説」を超えて、更に直接変革の力を持ち給う。その力を血汐と呼ぶ。
 「身代わり説」は「目に見えぬものを信じる信仰による内的確信」であるが、血汐はあたかもありありと見えるかのごとく注がれて、具体的なサタンの束縛より我々を解放し、我々をきよめる。それは、目に見える競技場にてこの世の君やその手下どもと戦うとき、どうしても必要な霊的武器である。十字を切って悪霊を払う儀式は、昔は決して単なる迷信や形ばかりの習慣ではなかったであろうと私は思う。
(7) キリストの十字架、見よ、それは汝の旗印である。本間俊平がかつて、伝道とは何ぞ、それはかしここそ汝の死に場所であると言って、ゴルゴタの丘を指さすことであると言った。正しい、それは本当に正しい。涙っぽい哀れな十字架ではない。積極的、殉教者的、動力源的十字架、その十字架を指して、あそこで一緒に死のうじゃないか、と死を目指す生き甲斐の宗教! そこには商売繁盛も病気回復も試験合格も家内円満も何もない。御利益や幸福はくそくらえだ。全世界をたぎるルツボに入れて聖化してしまうような十字架の磁場を、我らは目指すのである。


十字架の言(ことば)

 パウロによると、神の力とは、端的に十字架の言なのであった(Ⅰコリント1:19)。福音を語るにあたって、我々がすぐれた言語や巧みな言い回しを用いる時、福音は無力化する。
 パウロが、十字架につけられたイエス・キリストのことだけを念頭において語るとき、その語り口はこの世の智恵者の型と異なり、あの一代の博学(使徒行伝26:24)と言われたパウロの言葉もおのずから稚拙となり、愚者の物の言いぶりに似てくるところがあったであろう。しかし、そのたどたどしいパウロの言葉が、人々の心を粉々に砕き、これを吸い寄せ、これを神の召しとしての選びに釘づけしてしまう。パウロの宣教や日常談話の言葉のすべてが、不思議な能力←聖霊と言うほかはない聖なる把握力に裏打ちされていることに気づかずにはいられない。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-11-03 09:47 | 日岡だより
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