No.405 オバマ大統領にノーベル平和賞 2009.10.11

オバマ大統領にノーベル平和賞

 今回の「オバマ大統領にノーベル平和賞」というニュースには、正直言って本当に驚いた。ノーベル賞委員会、味なことをやるなという感じである。
 ある新聞の記事では、その見出しに曰く、「実績より未来に託す」と。
 実際、核を実戦に使った唯一の国としてのアメリカが(その核の威力をまともに被ったのは我らが日本だが)、核軍縮への有効な第一声を放ってくれたことは称賛してよいと思う。
 もっとも、すぐに核武装を廃絶しますというのではなかろうが、そう声明を出されると一番に悲鳴を上げるのは日本かもしれない。
 昔、日本人には「親方日の丸」という言葉があったが、今は死語である。今は「親方は星条旗」かも知れない。その星条旗の国際的威力の象徴はドルであろうが、また核保有であろう。

 オバマ大統領まだ口で言っただけではあるが、この言葉には力がある。核保有でアメリカに追随したい国は、その穂先を遮られた感じだ。
 ノーベル賞委員会は、オバマを賞して「国際政策のために世界を導くスポークマンとしての役割を果たしてくれている」と言っている。これはオバマ大統領に対する絶賛と言ってよい。
 世界の平和のために、口を挟まないわけには行かないが、なんとなく口を出しにくい有力国家の核武装問題、それを「核武装はもう止めようや」といった感じのオバマ発言、大いに歓迎したい。《く》


(以下は1971年3月発行の「我ら兄弟」No.2より転載)

社長バンザイ

 困ったことに、私はいつもいそがしい。印刷をやっている小会社だが、小会社といえども一応の株式会社、そこの社長業は目のまわる程いそがしい。いそがしいといっても、人目にはラクな稼業に見えるかもしれないが、そこはそれ水戸黄門が言ったとかいう、静かに湖面にあそぶ水鳥の目に見えぬ水中の脚のあがきで、年がら年中人と金と注文取りで頭をいため、夜もおそくまで計算機を打っているということが多い。
 こういう世俗の仕事を一定の時間のわく内にとじこめて、あとの時間を自分の時間として趣味をいかしたり研究したりするということが私にはできない。できないというよりは、したくないのだ。そういう生き方は、自分の仕事をいやしめ、ひいては自分の人生をいやしめることでしかない。
 いそがしいというのは、冒頭に書いたように実は困る。こういう原稿すら書くひまがない。かと言って、ひまになったからといって、原稿を書けるとはきまっていない。案外、私のような人間、今のように忙しいからこそ、たとえ一枚でも二枚でも書けるのかもしれぬ。
 「実業の世界」と人はいうが、金と物量ばかり気にしているこの世界は、まったく「虚業の世界」でしかない。
 この虚業の世界に生きることは牧師をしたり芸術家になったりする人生にくらべ、はるかに価値もなく、かつ下品に見える。しかし、本当の宗教や本当の芸術はコントンたる世界の底より芽ばえると私は信じる。
 ウソを言い、媚びを売り、税金をごまかしてまで妻子を養わねばならぬ裏街道人生の実際を肌にしみてみて、初めて宗教や芸術がわかる。
 この虚妄な人生を逃げないで、その虚妄な人生を世間なみに必死の面(つら)がまえで耐えて生きて、浮き世の哀歓をかみしめる時、詩がうまれるし、祈りも出る。
 だから、今の私には、今のこの貧乏会社の社長の椅子が修行の道場なのだ、冥想の座なのだ、恩寵の椅子なのだ。
 これから逃げだそうとはゆめゆめ思っていない。
 社長バンザイ!

キリスト・イエスにバプテスマされよ

 昔、ローマの酷刑に、ペストやコレラなどで死んだ奴隷の体をくくりつけて、その病気をうつして死にいたらしめる方法があったそうです。パウロが「イエスの死を身に負う」と言うとき、この死刑のことを彼は頭に思い浮かべていたのではないでしょうか。
 パウロは、その仇に「疫痢のごとき人物」とののしられていますが、伝道とはまさしくイエスの死を負って自ら死に、また死にたるおのれを他に与えて、人々を疫痢に感染したるもののごとく死なしむることであります。
 「キリスト・イエスにあずかる(文語訳・合う)バプテスマ」とは、原語では「キリスト・イエスにバプテスマ(浸(ひた))される」とあります。それは即ち「キリスト・イエスの死に浸される」ことであります。キリスト・イエスの死の体・十字架・よみにくだりたまいしキリスト・イエス、死の彼の真っ只中に沈没させられることであります。
 聖霊のバプテスマとか、火のバプテスマとか称される体験は、たいへんすばらしいご恩寵のみわざであります。しかし、それを異常に求めますとき、かえって横道にそれる危険が多いのです。サタンはそこをねらっていますぞ。クリスチャンにとり、必須の関門は「キリスト・イエスへのバプテスマ」であります。そのことを確信してください。
「もしわたしたちが、彼に結びついて(文語訳・接がれて、意訳・ひとつ生命となって)その死の様にひとしくなるなら、その復活の様にもひとしくなるであろう。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」
 と、パウロの言うとおり、キリストにあっての死と生こそ、クリスチャンの生命であります。

霊覚について

 智恵のある人は、世の中のからくりが分かり、先の見通しがきくだけ、思案も多く心配が先立ち、サタンの誘惑の餌食になりやすいものです。霊能的な人も同様で、益よりも危険のほうが多いのです。
 神の御旨を知ろうとして、霊能的な感覚に頼るのはよいけれど、それができなくても気落ちする必要はない。信仰と当たり前の感覚がありさえすれば、真理のあるところは匂いのように分かるものです。
 よい音楽と、いやしい音楽と、あなたはどこで聞き分けますか。本当の文学と偽文学と、あなたはどこで読み分けますか。それは霊的嗅覚でかぎわけるのです。予言だとか千里眼だとかいう霊能と違って、それはもっと根源的で普遍的な人間の感覚であります。これを霊覚と呼びましょう。(つづく)《く》
 ※釘宮義人個人誌「我ら兄弟」は1971年3月に第2号、12月に第3号が発行されています。第1号は所在不明。お持ちの方がいらっしゃいましたらおしらせください。
[PR]
by hioka-wahaha | 2009-10-13 12:18 | 日岡だより
<< No.406 「我ら兄弟」No... No.404 奇蹟はあなたの口... >>