No.404 奇蹟はあなたの口にある! 2009.10.4

奇蹟はあなたの口にある!

 「奇蹟はあなたの口にある!」
 ジョン・オスティーン先生の名著であります。残り少なくなりましたので、残部を全部背後の机上に積み上げました。みなさんに差し上げます。
 既にお持ちの方にも差し上げますから、奥さんなり、旦那様なり、息子さんなり、お嫁さんなりに、差し上げてください。決して無駄になりませんから。
 この本の中に書いてある言葉の中に、あなたが気に入った言葉があったら、それを口にしてください。
「ね、あの本に書いてあったね。神様は今、ご自身の言葉を実現しようとして見張っておられる」

 この本の著者のオスティーン先生の生まれたばかりのお嬢さんが起きて這うことも出来ないようでした。しかしオスティーン先生は「大丈夫、娘のリサは起きて這い始めます」と信仰の言葉を口にして止めませんでした。そして遂に、待ちに待った日に、リサちゃんは体をひっくり返して歩き始めたのです。
 聖書には沢山の奇蹟物語が載っています。「しかし、あれは昔のことです。奇蹟の時代は既に去りました」と言う人もいます。しかし聖書は言います。「イエス・キリストは昔も今も変わりません」。イエス様の時代、初代教会の時代、弟子たちは幾多の奇蹟を見ました、死人はよみがえり、病人は癒され、足の不具の人は歩いて帰り、目の見えなかった人は、独りでズンズンと危なげもなく歩いて帰ったのです。今もそのことは起こります。私たちを、そのことを全能の主に求め、期待しましょう。《く》


(以下は1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」の連載です。)
主の御名を呼ぼう 17

 人為的と書くと、首をかしげる人もありましょうが、人間的熱誠と迫力で集会を指導することです。これも悪いことではない。昨年以来私は、万事に精神をつくし、心をつくし、力をつくし、人間としての能力を出しきり、しぼりきることの必要を主に教わりました。
 力を出しきった後の始末は、神様にたのむ、そういう(天理教の常岡さんばりですが)コツを去年以来習ったように思います。今度、倒れる前日までの夜となく昼となくつづく連続的集会と世俗の仕事の兼務を考えると、よくやれたと自分でも思います。それはそれで大切なので、今後もまた続けるつもりです。
 然し、それにもかかわらず、人力を抜けきり、熱っぽい感情的信仰をこえて、イエスの愛にのみ委ねきった、神秘的伝道の道の開かれる時が、来ているのであろうと思うのです。
          七、
 イエス・キリスト様、御名をお呼びいたします。
 イエス・キリスト様、ここにおいでください。
 イエス・キリスト様、あなたの愛に、あなたの生命に、あなたの血汐に、おろかなる僕の一切をひたします。
 イエス・キリスト様、あなたの中に住居(すまい)いたします。
 イエス・キリスト様、マラナ・タ(主、きたりませ)アーメン。
 (一九六八年七月三十一日 井上内科病院にて)
 
 <追 記>
 私は求道時代に明確なる回心体験(ウェスレーの言う瞬間的回心)を切に求めました。幸いにも主のご恩寵をもってその求めはかなえられ、昭和十九年以後、毎年十一月二十三日はその記念日となりました。
 然し、そのことはまた私の内にのこる肉の心に逆作用して、その御恵みを誇り、他をさばき、善かつ忠なる人々を遠ざける原因ともなりました。これは私の二十年来の伝道の歴史における傷となり、また痛みとなりました。今、心からなる懺悔をもって主の前におわびするしだいであります。
 瞬間的回心という鮮やかでドラマティックな経験は、その後の私の信仰態度に常に何かおこりはせぬか、一瞬後パッと変化しはせぬかと、異常体験を期待する悪癖をうえつけてしまいました。しかし、謙虚にその後の私の信仰体験をふりかえってみますと、その後の二回ほどの聖潔体験はまあ瞬間的と言えましょうが、それからあとは、もう直線的には方向転換せず、ゆるやかにカーブを描いているように思います。
 「大死一番」という言葉についても、これまで私が使ってきた気持には、エイッと「死」にとびこむような劇的予想があって、そのために肉なる意思と恐怖がいれまじってじたばたしているという感じでした。
 けれど、現在の私が知る「死」は、かつての日、ある御恩寵の日に始まった「死」が、今もなお私のうちに進行していて、それが最後のセンメツ戦にかかっているという感じです。ちょうどある病原菌が肉体に取っついて徐々にその病状をあらわし、遂にその死の凱歌をあげますように。
 ヤコブ・ベーメ(1575~1624)はその「魂の対話」の中で言います。
「そして、主を待つがよい。君の身のうえに、たとい何ごとが起ころうとも、それは、君を改心させるための、主のおぼしめしによって、起こされたものだと考えるがよい。こういって先輩天使は魂のもとを去った。魂は、そのときより、キリストの忍耐にならい、その歩みをはじめ、神に対する信頼と希望の中にはいって行った。魂は、日毎に強力となっていった。それにつれて、魂のよこしまな愛着心は、しだいにほろび行き、ついに魂は、偉大な恩寵の王国にむかえ入れられた。」
 ヤコブ・ベーメは、この著書の中で、神にそむいた魂がひとたびは神の火花を内に感じ、主のご恩寵にふれた後も、ふたたびサタンの巧妙な誘惑にかかって霊的浮沈のいくたびかをくり返して後、遂に徹底的に救われゆく様子を描いています。前述の引用文はその最後の節であります。
 その「………しだいに亡び行き」という言葉が私の注意をひきます。死がしだいに私の内に拡大され、生が満ち潮のように私をおそうてくる、それは主の御血汐により確立された私の内なる根源的死と生である! その御血汐においてゆるがざる「神に対する信頼と希望の中に」、私は生きるのであります。《く》(終り)
 注・文中のできごとは1968年のことです。
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by hioka-wahaha | 2009-10-06 11:30 | 日岡だより
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