No.399 主の御名を呼ぼう 12 2009.8.30

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」の連載です。)

主の御名を呼ぼう 12

 (前回よりのつづき)
心魂に徹していないのです。単なる精神的感動にすぎなかったのです。
 その後、エア・コンディショナーのきいた居心地のいい病院に転医して以後、私の体力は徐々に回復するけれど、それに倍して外気は七月の暑さがひどく、到底退院できません。その上、人間ドックに入ったようなもので、何かと検査しては病気を探し、次々と検査と治療が続いて、もう自覚症状は何もないのに、やはり入院を強いられています。このような現状に、私は神の意図を感じています。あの第二回目の発作の時の「死」が、もう一度私の魂の中に徹しきれなければ、私はこの病院を退院することはないであろうと思います。
 大げさに言えば(本当に大げさなのでご心配なく)失明の危険があるので余り本を読むなと主治医は注意してくれますが、その注意を固守しているわけではないが、たいして本を読んでいません。元来、本好きで本が無ければ新聞の広告でも読んでいたい私、まるで活字中毒だよと言っていた私ですが、今度はその症状(?)がほとんど停滞しています。入院以来、ずっと新聞も見ず、テレビも見ず、そういう外的なことが一切わずらわしい心境になっています。だから、別稿で書いたように思いますが、まゆの中にじっとしている蚕のような気がしてくるのであります。
         三、
 七月二十九日夜、「はしがき」以降全部の原稿を来院した妻に渡し、印刷にまわすようにたのみ、ただ、この「あとがき」だけを書きかけたまま手許にのこしました。妻が帰った後、K君が来てしばらく話していきました。このK君が目下、確信を求めて苦しんでいることを知っていますので、それにふれていろいろと話しました。
「K君、自我が死なんといかんのだ。(自我を殺すのではなくて自我が死ぬのです)一番やさしい死に方はね、 <死のうたってこのボンクラな自分、どうにも死ねるものじゃないとあきらめる> 死に方です。これで内的自我は生き残るが、最も深奥の霊的自我は死ぬ。たまねぎの皮の根を切ったようなもので、もう芽も出ることはないし、あとはくさって死ぬばかりさ。」
「それが先生むつかしいんですよ」
「たしかにね。易行無人、やはり、むつかしいですね。しかし、パチンとスイッチの切り替えのように、簡単なのでもある」
「私などは、それがいつのことやら」
「ぼくも経験がある。訳もなく待ち遠しくてね。突き破ればサッと薄紙を破るように向こうに行ける予感がするのに、いざ突破しようとすると背後に巨大なゴムひもでも仕掛けられているみたいに、その薄紙寸前でもとに引き戻されてしまう。この薄紙のごとき心路突破こそ、信仰の第一の関所です。 <向上の一路、千聖不伝> と言ってね、関所の前までは人が人を連れてくることができるが、その関所を通ることは自分自身でやらねばならん。塚本虎二先生がここの処を、親知らず子知らずの関所と呼んでいるが、けだし名言ですね」
「うちの妻も、そこをまだ通過していないのじゃなかろうかと一人で苦に病んでいます。」
「お宅の奥さんは道がちがうのじゃなかろうか。あたりまえの道のあるところには、関所が人工的に作ってあってとおせんぼをしているが、道なき道を行くと天然の山坂が待っていて、関所などはありゃせん。奥さんの愛行愛祷を見てみたまえ、ああして一皮も二皮もむけて変貌していくのがよく分かるでしょう。あのままでいいですよ。必ず、そのうち天下の高尾根をこえて新天新地を掴むよ。先ほどのスイッチの例でいうとね、早々に電灯線を引き込んでパッと明りをつけたはいいが、バラック住宅であるようなのとね、長年かけて三十何階のビルを作って、あとで全館にパッとスイッチを入れるのとあるよ。だから、あせってはいけない。大器晩成というからね」
「ところが、そうは言っても、あせらずにはおれぬ胸のうちってやつなんです」
「そうだね、分かるよ。だがね、あせってもあせってもダメだとあきらめる」
「あきらめはいかんと言ってましたのに」
「あきらめには二つあってね、仏教はいい意味でこのあきらめという言葉を使ったのです。ぼくは若い頃芸者にドドイツを習ってね、
 あきらめました
 どうあきらめた
 あきらめられぬと
 あきらめた
この唄には、すべてのボンノウを断ち切るものがあるよ」
「あきらめられぬとあきらめる……。あ、なるほど!」
「ぼくが刑務所の中でね、朝からずうっと夕方まで坐禅してみたことがあるんです。我を殺そうと思ってさ。しかし、朝から夕方まで飯も食わずに坐りつづけていても頭の中は雑念妄想で休む時がない。そして、夕方もすぎハッと気づいた。気根のいい人ならこうして坐禅して悟りも得られよう。頑張りのいい人ならこうして五年も十年も坐っておれよう。達磨、慧可、道元、白陰、鉄舟、あんな連中ならやれたろう。しかしこの俺はダメだ。この俺は坐禅なんかじゃ百年河清を待つの例の如く到底ダメなんだ、というわけでね。ぼくは坐禅に感謝しているんです。坐禅じゃダメだと坐禅で悟ったんだから。」
「さきほどの、あきらめました、と同じ理窟ですね」
「そうです。そのようにしてぼくは、それまで思ってもみなかった別の <死> をかいま見た、そしてイエスを仰がざるを得なくなったのです(「断絶」の項を参照)」
「先生、急にその段落が来るので、困るんですよ。そこが知りたい」
「そう、先日、本多顕彰の歎異抄入門をみたら彼も書いていたナ。トルストイが「我が宗教」で長々と精神苦闘の長口舌をふるったあげく、突然「ある日私は救われた」と来る。一番知りたいところをなにも書いていない。腹を立ててその本を投げ捨てたそうだ。私の好きな回心記は石原兵永のそれだが、そこでも回心の一瞬は空白の一行ですよ。ぼくはその一行あきのところを紙をむいてでもその中身をさぐってみたい思いがしたものです。書く側から言えば、それを言葉の破産(と福井二郎牧師が言った由)というのです。説教でもそうでしてね、トウトウたる名説教では霊的所産はない。その言葉が破れて人間が絶句するところで、聖霊が働く」
「ますます絶望的ですね、何をしていいかサッパリ分かりません。」
「そう、打つ手がないでしょう。これが腕を一本切り落とせとか、二十日間絶食しろとか言うのなら、やれんこともないみたいだが、こういう精神内奥の葛藤は打つ手がないんだ」
「もつれた糸を際限なくほどいているみたいなんです」
(つづく)《く》
 
注・文中のできごとは1968年のことです。
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by hioka-wahaha | 2009-09-02 15:53 | 日岡だより
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