No.394 主の御名を呼ぼう 8 2009.7.26

(1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」を連載しています。)
主の御名を呼ぼう 8

 庭の一株の花を見るとき、百人が百人その見る能力が違う。画家の見る目、詩人の見る目、庭師の見る目、農学者の見る目、寺男の見る目、大人の見る目、子供の見る目、―――それらをすべて夢みるものの如しと南泉は言う。夢は、影を見るのみで、その本体を捉えることができない。同様に、一株の花を見ていても、その「実体」を見る事ができず、幻の影を追うのみである。
 同様に、陸恆は肇法禅師の「天地我と同根、万物我と一体」の句をもってきたり、すばらしいですねェと、悟ったような顔をしているが、その実夢見るものの如く、猿が水の上の月をかきみだすのたぐいなのではないかと言うのである。
 これは恐ろしい、長年久参の弟子をかくもせせら笑う時、禅坊主の偉い奴の慈愛心がにじみ出てくる。先だって、Kさんが「分かった、分かった」と言って、悟った事の条々をさらしはじめた時、みんなのいる前で私がニヤリと笑った。これは見る人が見れば残忍な笑いでもあろう。しかし笑うほうにしてみれば、言うに言えない忍び泣きの笑いなのである。この師匠の嘲笑をみてギクリとした時、真の弟子たるものの孤独絶離の苦闘がはじまる。この瀬を通らぬとなかなか真理が分からぬ。
 「先生にバカにされた、先生にバカにされた」
 と言ってふくれる人が多い。バカにされる位、取り扱ってもらって幸いではないか。荒野でイエスが五千人の大衆に徒手空拳パンを与えようとした時、彼はその為す事を知っていて試みに「ピリポ、どうしようかね」と問うたとある。「師よ、二百デナリあっても足りますまい」とピリポは間の抜けた返事をする。その後で、イエスの五餅二魚の大奇跡がおこる。ピリポは恥ずかしくて顔も上げられなかったろうと思う。しかし、この時こういうからかい半分の質問をして、その内奥をたしかめる人物としてイエスに選ばれた光栄の重みを、ずっと後で悟ったことと思う。
 この前、N君に言った。
「おい、もっと伝道をしろよ、伝道を。伝道をすると、分からん事が分かってくる。」
「だって先生、何を言っていいか分かりません。なんにも無いんです。」
「無い袖は振れん、という奴だナ」
「ハイ」
「無い袖を振るのが伝道だよ、無い袖を振るのが信仰だよ」
「……………」
「伝道しようにもどうしようにも、手の内に何もありません、そういう無一物極貧の魂のまま、何かやらねばならん。そりゃ勿論、霊的能力、知識、経験、それらをたくさん持っていて悠々たる伝道をする大人物もいるだろう。その真似はできん。またその真似をせよと言っているのでもない。君にできる伝道のやり方がある、それが無い袖を振れということだ」
 「分かりません」
 そりゃ分からんだろう、分からん事を承知でこの残酷無類の師匠は弟子をいじめているのだ。こういう時、弟子の心は、猫にいじめられる鼠にように、あれを思いこれを思い、ああ答えようかこう答えようかと七転八倒して行き詰まる。
「教えてやろう。ストリップをやれ。ヌードダンサーは無い袖を振っているよ」
 ここまで言っても、機の来ぬものには分からぬものだ。こういう「落し」は禅好みであるが、こういう話のくずし方、引いてはここでいうヌーディストの生き方を、私は「御霊(みたま)くずし」と言う。御霊くずしにくずれた生き方、それが信仰の生である。
 さて、右の碧巌録の本文に対する「評唱」に曰く「これはたしかに解しにくい言葉である。活きた人物なら聞き得て無上の醍醐味を知ろう。死人の如き人物ならば聞いてかえって毒薬となろう。」これを殺人刀活人剣と言う。両刃(もろは)の剣(ヘブル書第四章一二)の如く彼を斬るか、我を斬るか、死活一瞬に別るる事態である。
 この文章の冒頭に書いたが、たしかに私の霊的古典の読み方は、盲へびにおじずのたぐいか、とにかく我流の無茶な読み方である。自分で分かったような気がしても、ここでいう陸恆のように、浅薄曲解して得たりかしこしとすましこみ、先輩諸師より大喝を食らうの体かもしれない。
 しかし、それでよし、と私は大きく息を吸って座り込む。悟り得たと思って、かえって「毒薬の如くならん」とも、その毒薬によって死に至ろうとも、よろしい。私はこの路をすすむのである。
 即ち「評唱」に更にいわく、
「南泉のいう大意は次のとおりである。虎児を捉え龍蛇を掴む程の腕が要るぞ。その辺の境地に至ってはじめて自ら悟ることを得よう。昔より言う、向上の一路、千聖不伝と」。
 然り、千聖不伝、父子不伝、師弟不伝のこの一路、人心に直指して悟らしむるこの心路を吾人は踏破しようではないか。
 
   断絶
 
 神との「断絶」を味わったことのある人は、この世で最も深刻かつ不幸なる体験をした人と言わざるを得ません。しかしまた、最も幸いなる人でもあったろうとも言わざるを得ません。自分の立っている地面が、足もとから割れて、メラメラと地獄の火の燃え上がってくる奈落に、石がくずれ落ちるように落ち込んでいく私を見るとき、(そして地は私を飲みつくすと再び固くその上を閉じふさぐのである、一切を断絶して……民数記第16章31~33)今や神との間に、万に一でも救われやせぬかと望みを托すべきくもの糸ほどのつながりも無くなってしまって、未来永劫まで神との間は全く無関係になってしまったという、絶望感・虚無感・無力感にうちひしがれる―――これを断絶というのです。
 この断絶苦に入ると、「我ふかき淵より汝を呼べり」(詩篇第130の1)というような深淵体験もまだまだ浅いものに感じます。なぜなら、この旧約の詩人にはまだ「汝を呼べり」といって、神を呼びまつる気力がありましたから。本当の断絶体験では、そういう神によりすがろうとする一条の希望も無くなってしまうものです。罪意識の深刻なるものとして、
「義人なし、一人だになし」だの、
「ああわれ悩める人なるかな、此の死の体より我を救わんものは誰ぞ」などというパウロの言葉、あるいは、
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なる故に
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」
 などと和讃にうたった親鸞の言葉などが、よく引照されるようですが、それも私の言う「断絶体験」から言えば、深みの足らない感じがするのです。(もっとも以上のパウロや親鸞の言葉は回心して以後の罪障意識から出ている言葉なので、それで当然であると言えるのですけれども)
 ダマスコ途上の回心寸前のパウロの魂は多分断絶状況であったことでしょうが、文章としては残っていません。(つづく)
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by hioka-wahaha | 2009-07-28 09:51 | 日岡だより
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