No.800 《聖書のことば》パチパチ燃えよう/聖句暗記のおすすめ(9)/天の父、永遠の乳房 2017.5.14

《聖書のことば》聖書暗記コースA~10
パチパチ燃えよう

交わり「愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
(ヘブル人への手紙一〇・24~25)
 
 ここで聖書が、信徒たちの定期的な集会を奨励している事はあきらかです。病気とか、任地の関係で参加することが困難な人に、無理に集まれ、と言っているのではありません。しかし出来る限り努力して日曜礼拝のみならず、それぞれの集会に出席しましょう。
 たきぎは一本では燃えにくい。二、三本、いやもっとたくさんだと、パチパチ威勢よく燃えます。あなたもパチパチ燃えて下さい。
(1980.6.8週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(9)

聖書の言葉をたくさん、あなたの心に貯えましょう(コロサイ三・16)
御言葉は神の民の攻撃的武器であります(エペソ六・17)

①御言葉はサタンを撃退する。
 イエス様がサタンの誘惑にあわれた時、つねに用いた武器。「聖書にこう書いてある」と言って、聖句を用いられました(マタイ四・四、七、一〇)。これは私たちに残された実際的教訓です。

②あなたの生涯を清め、罪を止めさせる。
 あなたがもし罪を犯そうとするなら、その時あなたの心の中にある御言葉は鐘をならして、あなたの良心に警告を発するでしょう。その上、又、あなたが積極的御言葉を告白しつづけるなら、悪を行わず、かえって善を行う精神力を奮起させてくれるでしょう(詩篇一一九・九、一一)。
 
③クリスチャンを更に教育、訓練、完成する。
 聖書は、神の人が、あらゆる良いわざを行えるよう、十分に準備され、完全に装備される為に、教育、訓戒、矯正、義人に仕立て上げる為、最も役立つ神の教具であるのです(第二テモテ三・一六、一七)。
 (1980.6.8週報「キリストの福音」より)



天の父、永遠の乳房
 
 明治、大正の讃美歌に次のようなのがあった。
 
一、花よりも愛(め)でにし わが子よ
  のこしし衣(ころも)だに いとなつかし
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 花ちる暮(くれ)
 (おりかえし)
  わが子よわが子よ 速(と)く帰り
  心ゆく祈りを 共にせずや
 
二、かすむまで送りし わが子よ
  み空(そら)かける雁(かり)に 便り寄(よ)せよ
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 月澄(す)む夜半(よわ)
 
三、神の使(つか)いと見し わが子よ
  汝(な)が父はおとろえ 母は老いぬ
  たのみなき旅路を いずこに
  さまよえるか今は 雪のあした
 
 遠くに出て帰らぬ子を恋うる歌として、日本人の心情にぴったりだから、よく歌われた。昭和六年改訂版で木岡栄三郎の曲になってからは、さっぱり歌われなくなり、現在の版ではとうとう歌詞の方も消えてしまった。残念である。明治版では、フォスターのスワニー河の曲でうたっていたのだが、子を想う情、いかにも切々としてよかった。別所梅之助の名訳である。
 この歌は、勿論、ルカ一五章の放蕩息子の物語を下敷にしている。しかし、人間の情が強すぎて、あの放蕩息子の物語りに出てくる父なる神の愛を表現できていない。そういう所が現在の讃美歌から追い出された原因かもしれない。
 親という字は、木の上に立って見る、と書く。家出した子を持つ親は、毎日、木の上に立って、かなたの道を待ち望む気持ちであろう。それと同じように、神は、十字架という木の上に立って、人類の帰ってくるのを待っている。
 万葉の歌人、山上憶良は歌う。
 
しろがねもこがねも玉も何せむにまされるたから子にしかめやも
 
 この親の愛に、神の姿の片影を見ることができる。イエスは、神を私の父と呼び、旧約聖書は永遠の乳房と呼んだ。この親のもとに帰ろう。
(1980.6.8週報「キリストの福音」より)















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# by hioka-wahaha | 2017-05-19 18:59 | 日岡だより

No.799 《聖書のことば》小さい群れよ/聖句暗記のおすすめ(8) 2017.5.7

《聖書のことば》聖書暗記コースA~9 
小さい群れよ

交わり「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」
(マタイ一八・20)
 
 イエス様は、他の所でこうも言っています。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と。
 また、こうも言っています。「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」と。
 強調点は、あなたがたであり、群れです。初代教会の特色の一つは、「ひたすらな信徒の交わり」なのでした。そこにキリストが生き、神の国があるのですから。
(1980.6.1週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(8)

この聖句の暗記はどのように役立つか
①伝道のとき、確信をもてる。
 友人に自分のイエス・キリスト様への信仰を証ししたい。そう思って必死になっても、もどかしいほど口は動かず、何を話してよいか分らない。こういう経験をされる方は多いでしょう。
 特に個人伝道は、決して容易なことではありません。しかし、やってみると案外にやさしいのです。それは、聖句を武器として持つことです。おどろくべき結果を得ます。多くの活動的クリスチャンが、主要聖句を暗記していたために、沈黙からまぬがれ、効果的な伝道(証し)ができた、という事を聞きます。聖書の御言葉自身に人の心を変える能力があるのです。
②あなたを力づける。
 暗記できた聖句を、夜ねる時、朝おきた時、朗々と暗唱してみて下さい。これを二、三日もつづける時、元気が出、不安がなくなっている自分を発見するでしょう。クリスチャンは時に砂をかむような霊的生活におち入り、あるいは罪に負ける事も多々あります。このようなサタンの勢力に対して勝利する為には、この聖句暗唱──つまりいつも申し上げる「御言葉の告白」が有力な一手段であります。
 (1980.6.1週報「キリストの福音」より)















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# by hioka-wahaha | 2017-05-19 16:40 | 日岡だより

No.798 《聖書のことば》思いわずらう前に/聖句暗記のおすすめ(7)/私の信仰記(6)魂の泥沼・絶滅 2017.4.30

《聖書のことば》聖書暗記コースA~8 
思いわずらう前に

祈り「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」
(ピリピ人への手紙四・6~7)
 
 どんな小さな事でも、世俗的なことでも、卒直に神様に祈りなさい。思いわずらう前に祈りはじめなさい。具体的に問題をぶちまけて、神様に子どものようになって訴えなさい。それでも心に平安が来なかったら、再び祈りなさい。何度でも祈りなさい。神様の前ではかみしもをぬいで遠慮せずに語りなさい。
(1980.5.25週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(7)

 この「聖句暗記のおすすめ」も、早いものでもう七回目になってしまいました。こんなにくどく書きつづけると、これまで聖句暗記に取り組んでいなかった人々や、一度やりかけて途中で挫折した人々には、この欄が重荷になりはせぬか、やる気もなくしてしまいはせぬかと心配になり始めました。
 人生、挫折する時がよくあります。一心貫徹式の人生指導書や、実践力行型の伝記類にはげまされるのはよいが、遂に気押されてしまって、「自分はあんなことはできません。あの人達は特別です。私は、平凡ないや劣等型の人間です。到底、あんな事は出来ません」と、ひらたくなってしまって、一切の努力を放棄してしまう人が多いのです。
 私は元来、薄志弱行で三日坊主の熱しやすくさめやすいタイプですから、その気持がよく分ります。こんな時必要な事は、何度失敗・挫折しても、こりずに厚かましくもう一度やり始めることです。自分を責めず失敗にこりず、何度でもやりなおすのです。このコツを掴むと、万事、性格矯正が楽になります。
 一度やりかけて挫折し、忘れ果てていると思っていた事を(聖句でも他の勉強や技術でも)、やり直し始めると、その時突然思い出して、あらためてしっかり身につくことを経験する人は多いはずです。
 (1980.5.25週報「キリストの福音」より)
 


魂の泥沼・絶滅
――私の信仰記(6)――
釘宮義人 
 
 この連載ものの第一回目、その終りの所にちょっぴり書いた、私の獄中回心記を、もう一度振り出しにもどって、くわしく書いてみましょう。
 一九四四(昭和一九)年一一月一九日(日)、その日は刑務所用語でいう免業日で、仕事が休みです。独居囚人にとっては、仕事のあるほうが余程うれしいのですが、その日ばかりは私はホッとしました。どんなかんたんな仕事でもする気はせず、出来る事なら食事も休みたいくらいでした。
 その日、聖霊は私の魂に、照準をあてていたに違いありません。そして、御言葉を私の脳中めがけて発射したのでしょうか、この御言葉です。
「人の義とせらるるは……、唯キリスト・イエスを信じる信仰に由るを知りて、キリスト・イエスを信じたり」(ガラテヤ二・16)
 その時、この御言葉が、私を生かしも殺しもするという予感がしました。私は神に義とされたいのでした。あの荒巻君の自殺によって触発された私の罪意識は、しだいに私の魂をおおい始めていました。私は、私の罪の性質に目を開かれて苦しみました。虚勢をはる心や、性欲が最も自分を苦しめたのでした。その上、人におびえ、その恐怖心が居直ると、今度は逆に自暴自棄になって神冒涜の思いや言葉が出てくる。しまいには妙な精神障害さえおこってくる。私は魂の泥沼の中であがきもだえました。
 先程の聖書の言葉、ガラテヤ二・一六の前半「人の義とせらるるは……、唯キリスト・イエスを信じる信仰に由るを知りて」の知りてという言葉が、私にとり象徴的でした。たしかに、私はキリスト教の教理を大体正確に知っていました。現在の私のもっている教理の知識の大半は、その時に得たものです。それは知性による知識収集であり、単に普遍的な真理としての承認にすぎなかったのであります。
 そこで、私の問題は、それが「私の事」として信じられない、という点にあります。人様のこととしては承認できますが、いざ自分のこととしては、あてはめられない。結局「自分はこの救の真理を信じていないのだ」と自認するほかない。丸一日、汗びっしょりかいて考えぬいて、その結論を出しました。そのとたん、私の魂は地獄にころげおち、地獄の火が地面を割り獄舎の床をわって燃え上がってくるのを見ました。石原兵永の言う「絶滅」であります(同氏「回心記」八八頁を参照)。その絶望のまま四日間すぎました。
(1980.5.25週報「キリストの福音」より)













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# by hioka-wahaha | 2017-04-30 23:00 | 日岡だより